「別れよう」

向かい合わせに座った喫茶店の片隅で律がそう言ったのは、つきあい始めて3ヵ月が過ぎた頃だった。
幼馴染な彼女を意識しだしたのは高3の終わり頃から、それとなくアピールを続けて……。
彼女の方からつきあおうと言ってくれた時は、大げさでもなんでもなく、それまでの人生で一番幸せな瞬間だった。
デートして、キスをして、やがてセックスするようになるまでそう時間はかからなかった。
私たちはうまくいく。きっと、これからずっと。
そう思っていたのに。
考えてみれば、律はこの1週間ほど様子がおかしかった。
元気がなくて、二人でいても上の空で、物思いにふけっているようだった。
浮気……真っ先に浮かんだのはその言葉だった。

「誰か、他に好きな人ができたの?」
「違う!」

答えは早かった。そうじゃない、と律は首を振る。

「私のこと、嫌いになった?」

これにも、律は首を振る。

「なら、どうして」
「それは……」

唇を噛んで、律はうなだれる。

「ごめん。言えない」
「そう……」

頭を垂れる律を見つめながら、私の胸には暗い感情が湧きあがってきていた。
別れる? 理由は言えない?
そんなことが許されるとでも思っているのだろうか。
私の心を奪い、虜にし、純潔さえ捧げさせておきながら……。
許されるはずがない。
こんなにも貴女のことを愛している私を裏切るなんて。
赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない赦さない――絶対に!


……

澪からの電話とメールはひっきりなしだった。
喫茶店で、放心状態の澪を置き去りに私が席を立ってから、丸1日。
携帯が鳴り止んでいる時間はほとんどなかった。
携帯の電源を切ってしまえばすむことなのだが、私にはどうしてもできなかった。
もしかすると、決心したつもりでいたのに心のどこかでは澪と繋がっていたいと願っているのかもしれない。
大学に入って一人暮らしを始めたので、一日中着信音が鳴り響いていても家族に迷惑をかけることはない。
それが唯一の救いだった。
メールの文面『愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛し――』、
留守電のメッセージ『どうして出ないんだよ絶対別れてあげないから聞いてるんだろ赦さないから赦さな――』
それらは私の胸をかきむしった。
澪はどちらかと言えば内気で、控えめな女の子だった。
それが、こんなにも狂おしい想いを隠そうともせずぶつけてくる。
その感情のエネルギーの大きさに、私は眩暈がした。
怖い。
本当に、恐ろしかった。
これから私が……私と澪がどうなってしまうのかを想像すると、身震いがした。
それともじっとおとなしくしていれば、この嵐は過ぎ去るのだろうか。
ああ、澪……澪は私と別れるべきなんだよ。
それが澪のためなのに。
ふと見上げた先に鏡があった。
その鏡に映った女は、卑しい目をして微笑んでいた。
「澪……ふ、ふふふ……」


……

私は律の部屋のインターホンを押した。
朝、律が講義を欠席したことを確認して、すぐにこちらへ向かったのだ。
私は1日待ってあげたというのに、電話にもメールにも一度たりとも返事がなかった。
彼女は私の信頼を裏切ったのだ。
もう遠慮することはない。

「……来ると思ってたよ」

てっきり居留守を使われるかと思っていたが、意外にもあっさりとドアは開いた。
律はすんなりと私を中へ通してくれる。
拍子抜けする感じがした。

「バカだな、澪。どうして来ちゃったのさ」

リビングで立ち尽くす私に、律は笑いかけてきた。
別れ話などなかったかのように、優しい目をして。

「決まってるだろ。どうして別れなくちゃいけないのか、理由を聞きにだよ」

私の鞄の中には密かに包丁が忍ばせてあった。
もし、私の聞きたくない答えを彼女が出すようならば、私は律を刺さなければならない。
それが私を裏切った彼女への罰なのだ。
私が悪いわけじゃない。報いを受けるのは当然ではないか。
しかし律は黙ったまま、なかなか口を開こうとはしなかった。

「なにか、言ったらどうなんだよ」

私はこっそりと鞄の奥へ右手を滑らせていた。いつでもそれが取り出せるように。

「なぁ、澪」
「なに?」
「私、別れようって言ったよね」
「ああ」
「電話もメールも無視した」
「そうだな」
「なのに、澪は来ちゃった」
「あたりまえだろ。納得できないんだから」
「でも、部屋に上がっちゃったら、なにされても文句は言えないよ?」
「な、なに言ってるんだよ……?」

瞬間、私は剣呑なものを感じて半歩下がった。
でもそれをあざ笑うかのような素早さで、律は私との間合いをつめていた。
律の手に何かが握られているのが見えた。
それが私の腹部に押し当てられる。あっという間もなく私は腰からくだけて床にへたりこんだ。

「ごめんな、澪」

上から降ってくるその声が、やけに遠くに聞こえた。
私は動くこともできず、ただ律の足を眺めるだけだった。


……

一度は逃がそうとしていた子犬が、自ら腕の中に飛びこんできた。そんな気分だった。
手に入れた。手に入れてしまった。もう逃がしてあげない。二度と。
私はスタンガンによって無力化している澪に手錠をかけた。玩具とは違う、鍵がなければはずすことはできない。
次いで、その細い首に赤い首輪を。
ぞくぞくした。
一人の人間を、ただの所有物にしてしまう。そんな背徳感が私の下腹部を熱くしていた。
首輪についたリードはベッドの足に繋いでしまう。
可愛い、私だけのワンちゃんのできあがりだった。あとで犬耳と尻尾も買ってつけてあげようか。

「う……律……」

少し回復したらしい澪が、ベッドに腰かけた私を見上げてくる。

「今日から澪はこの部屋で暮らすんだよ。嬉しい?」
「どういう、こと……?」
「愛してる。澪」

私は澪の頭に手をやり、綺麗な黒髪を撫でた。

「気づいてる? この部屋にはテレビもラジオもない。パソコンもない。電話は私の携帯だけ。澪の携帯は……」

私は澪の鞄を開けた。携帯より先に包丁が見つかって、私はこみあげる嬉しさに笑みをこぼさずにいられなかった。
私のこと、殺したいくらいに想ってくれていたんだね……。
携帯は電源を切って、念のため湯をはっていた浴槽に沈めた。あれは防水タイプではないので、壊すにはこれで充分だろう。

「ど、どういうこと?」
「わかんない?」

私は澪の目線の高さにしゃがみこんだ。

「この部屋には、外と繋がるものは何もないんだよ。私と澪の二人だけ。あとは何もない。わかる?」

澪は怪訝そうに首を傾げる。
頭のいい子なのに、わからないふりでもしているのだろうか。

「澪の目に映るのは私だけだよ。澪の耳に聞こえるのは私の声だけ。澪の世界には私だけいればいい。あとはいらない。そんなの許さない。赦せない」

 私が自分のこの想いに気づいてしまったのは、澪が男友達と談笑する姿を見た瞬間だった。
引っ込み思案な性格だったのに…楽しそうにしていた。あんな奴と。
ダメだ。澪に男が近づくなんて。いや、男だけじゃない。女だって……ダメだダメだ。
誰も澪に近づくな。
私の澪に、触れるな。

「愛してるよ」


一度は否定した、危険なこの思想。せっかく鍵をかけたのに、それを壊して入ってきたのは澪の方だった。
だから、もう我慢しない。
私は澪を抱きしめた。

「律……」

澪が私の耳元で囁いた。

「私は、律の……律だけのものになるの」
「そうだよ」
「……いいよ。でも――」

私の肩をそっと押した澪は、熱に浮かされたような瞳をしていた。

「もし私のこと捨てたりしたら……殺すから」

ああ――。
その言葉に私は、もう劣情を隠すこともできず、澪の唇に貪りつくとそのまま押し倒していった。