その3、滅びの歌の澪編

「ああ、おはよう和」

今日も私は、クラスメイトに挨拶をする。
いつも通り、彼女は、教室の大きな窓から差し込む朝日に横顔を晒して、なんとなく寂しそうな顔を見せて、私を数瞬じっと見つめる。
そして、ただ、息を吐き出すような、曖昧な声で言う。

「おはよう、澪」

私はまた、妙な気持ちになる。
なんというか、そう、ただ、彼女の短い髪の中に、彼女の頭がある、ただそれだけのことが、大きな裏切りに感じられる。
彼女のアンダーリムの眼鏡の奥からしか、彼女は私を見ない、それが、私への非難に感じられる。
彼女の眼が、私を射通して、頭から踝まで、全てを無茶苦茶に溶かしてしまいそうな、そんな気がする。

「おっはよ、澪ちゃん」

ばん、と背中を叩かれて振り返ってみると、可愛らしい大きな目をした、茶色い癖毛の女の子がいた。
この娘は、朝日の中で頬杖をつく女の子の幼馴染で、底抜けに明るい子だった。
彼女の眼は、私のことを全て見透かしてしまいそうで、だから、もしそんなことになるくらいなら、私は……

「ねえ、澪」

幼馴染とじゃれあいながら、眼鏡の女の子が言った。
寂しそうに笑って、言った。

「今日、放課後どこかでお茶でもしない?」

それを傍で聞いていた幼馴染の女の子は、ぶうっと頬を膨らませた。

「私も行きたい」

「めっ」

そう言って、眼鏡の女の子に額を指で弾かれると、幼馴染の女の子は、ちぇっと言って彼女から離れた。
今日は部活があったと思う。そういえば、ムギが曲を作ったって言っていたから、聞きに行かなきゃいけない。
そんなことを考えながら、私は頷いた。

「わかった、行くよ」


「部活、あったんじゃないの」

眼鏡の奥から、手元の紅茶をのぞき込みながら、彼女は言った。
なんとなく気だるげに、どこか嬉しそうに、紅茶に口を近づけた。

「あるよ、過去形じゃなくて、ある」

そう、と短く返事をして、彼女は目にかかった前髪を払った。
窓際の席に座る彼女を、また、朝のように、優しい光が包んだ。

「日が落ちるまで、どれくらいかかるのかしらね」

「さあ、あと二時間くらいじゃないかな」

また、そう、とだけ言って、彼女は紅茶を飲んだ。
ちらと窓の外を見て、言った。

「それまで、一緒にいてもらってもいい?」

彼女の眼に、必要以上にハイライトがかかっていたから、私は、一瞬息を飲んで、頷いた。

「別に、いいけど、さ」

「そう、良かったわ。いや、違うわね、良い、過去形じゃなくて、良い」

彼女はくすりと笑った。


「月って、真黄色よね」

朝も、昼も、そして、今も、彼女は光りに包まれている。
優しい月明かりに包まれている。

「そう、だな」

彼女がじっと見つめている月を、私は直視することができなかった。
彼女は公園のベンチに座って、月を眺めたまま言った。

「なにか、言いたいこと、ある?」

彼女は耳のあたりで跳ねた髪を撫で付けながら言った。
月を眺めたまま、彼女は言った。
私は、彼女の隣に腰掛けて、口篭った。

「言いたいことじゃなくて、聞いてほしいことなら、ある」

そう、と、また彼女は言った。

「最近、私は唯たちを騙してるんじゃないかって、そんな事ばかり考えてる。
 私は全然しっかりしてなんかいないし、真面目でもないし、それなのに、あいつらの中ではいい子ぶってる」

そうかしら。初めて彼女は疑問形で返した。

「そうだと思う。私は直ぐに折れるくせに、梓と一緒になって、練習しようだなんて言ってる。
 それなのに、みんながお茶をし始めると、私も加わる。私は、なにがしたいんだろう」

「それで、最近唯のこと、避けてたの」

彼女は、月から目を離して、私を見つめて言った。
彼女の眼には、まだ月明かりが灯っていた。

「そうだな、そうかもしれない。今になって、嘘くさい自分に耐えられなくなったのかもしれない。
 どうすればいいんだろう、あいつらは、私がこんなことを考えるような、陰気な人間だと知って、幻滅するかな。
 でも、隠し続けるのも、卑怯じゃないか」

唯たちは、いつだって、真っ直ぐに、光がただ直進するように、真っ直ぐに私を見つめてくるのに。
彼女は、また月を見上げながら、淡々と言った。

「月って、裏側は見えないんだって」

「うん、知ってる」

「それって、すごいことよ。自転と公転が同期してなきゃならないもの」

「すごいっていうか、月にとっては当たり前のことなんじゃないか」

そうね、多分、そう。彼女は微笑んだ。

「地球からは月の一面しか見えないのも、地球に住む私たちからしてみれば、当たり前のことよ」

「そりゃあ、そうだ」

「でも、私、どっちもすごいと思うわ。一面だけをずっと見せ続けるのも、一面だけをずっと見続けるのも」

「なんでだよ」

「だって、あなた、悩んでるじゃない」

唐突に、突然に、彼女は私の話を始めた。
じっと、澄んだ眼で、私の目の奥、脳の奥、体を通り越した、ずっと奥にあるものを見つめているようだった。

「どっちもすごいわよ。唯たちの前で、ずっと"いい子のふり"を続けるのも、
 純粋に、いい子ぶってるあなただけを見続けるのもね」

「そうかな」

「そうよ、きっと」

彼女はまた、月を眺め始めた。
彼女は、横目に私を見た。
眼鏡のレンズを通さず、横目に、ちらと私を見た。

「どっちでもいいわよ。月の裏側を見るために、頑張った天文学者がいるんだから」

「あいつらは、裏側がどんなに荒れ果てていても、汚くても、見たいと思うだろうか」

「見ないと分からないじゃない、そんなこと。でも、多分、そうね、見れただけで喜ぶと思うわ」

「そうかな」

「そうよ、きっと」

だって、私は嬉しかったもの。
そうして、彼女は小さく、くつくつと笑った。

「クサかったかしら」

「そんなことないさ、全然」

私は、そっと彼女の髪に触れた。
髪をかき分けて、彼女の肌を撫でた。
彼女は少し照れくさそうに、何よ、と眼鏡の奥から私を見て、呟いた。

「なんでもない」

「そう」

彼女の髪の毛は、さらさらと流れる水のようで、少し冷たかった。
彼女はさらりと言い放った。

「月が綺麗ね」

彼女の表情は、それまでと全く変わらなかったから、彼女が私と同じことを考えていたかは分からないけれど、
真っ赤な顔が照らし出されないように、少し俯いて、私は呟いた。

「うん、月が、綺麗だ」




さわ子「生徒会長さん」


肉が重なる、皮が形を変える。
そんなことを何回、この部屋の中で繰り返してきただろうか。
長い年月、押弦を続けたせいで、すっかり硬くなってしまった指先を眺めて、久しぶりにギターを弾いた。

錆びついた弦、バラバラの音。
チューナー無しでは、もうチューニングすら出来やしない。

「……おはようございます」

眼鏡をベッドのそばに置いて、寝ぐせのついた短髪を撫で付けながら、生徒会長は言った。
服はぐしゃぐしゃになったドレスシャツ。
皺になったスカートは、床に投げ出されている。下着も、一緒に。

「おはよう。五月蝿かったかしらね?」

薄く開けた目をこすって、生徒会長は首を振った。
くあ、と大きく口を開けて、欠伸を一つ。

「全然。休日でも、だいたいこの時間には起きてますから、気にしないで下さい」

そして、ごろんと寝返りをうつ。
白い肩が見えた。
急いで目を逸らして、言った。

「そう、じゃあ、音出すわね……」

たまに、親からお見合いの話、なんてものももちかけられる。
毎回、私は断る。
三十過ぎて独り身なんて笑いもの、社会からズレた変な人。
そんなことを、私の母は良く言う。

「先生、音、ずれてませんか」

ぼうっと天井を眺めながら生徒会長が言う。
興味ないふりをしていても、彼女はいつでも私のことばかり見ていて、それでも興味のないふりをするのは。

「あら、ばれちゃった。面倒くさいからね、音合わせてないのよ」

面倒くさいから、だなんて。
きっと、もうずっと前に、彼女は嘘だと気づいてる。
誰かの、何かの助けがないと、チューニングは合うことはない。

「ふうん……いつも思うんですけど、そのギター、妙な形ですね」

彼女はいつでも、ギターの形ばかり気にする。
音は気にしていないふり、それでも、時々、彼女は太い音は嫌いだ、歪ませ過ぎた音は嫌いだと零す。

「格好いいじゃないの。好きでしょう、格好良いの?」

生徒会長は上体を起こして、体操座りをして、こちらを見つめた。
華奢な肩、シャツが脱げそうになる。
ズレた部分を指でつまんで元に戻して、生徒会長は寝ぼけたように言う。

「服、着たらどうですか……アビイ・ロードのパロディジャケットみたいに見えますよ」

いつだか見せた、少し下品な、CDのジャケット。
相変わらず、彼女が気にしてるのは見た目ばかり、そんなふり。

「あら、スケベね……お腹すいたわ、ご飯作ってくれる?」


相変わらずズレたままの音。
いつだって調整できる、そんなふり。
だけど、もう無理、チューナーまで壊れてしまっては。

「はいはい、そのくらい自分で出来たほうがいいですよ……冷蔵庫空じゃないですか」

スカートを履かず、ドレスシャツだけ羽織った、官能的な格好の生徒会長はため息を付いた。
なんて横顔。急いで、指板を見つめる。
それでも、我慢できずに、すっくと立ち上がった。

「食材、買ってきますね」

そう言って床のスカートをつまみ上げた彼女を、そっと抱きしめる。

「服、着たらどうですか」

全然動じていない。
抱きしめられたら、何も見えない、だから全然動じない、そんなふり。

「あなたもね」

欲情なんてしていない。
だって、彼女は男じゃないんだから。
これはただのお遊び、そんなふり。

「面倒くさいから、このままでいいですよね」

面倒くさいだけ、その気になれば、いつでも戻れる。そんなふり。


結局朝食はトーストだけ。
マーガリンもない、ただ焼いただけの食パン。
もしゃもしゃと噛んで飲み込んで、生徒会長は所在なさ気にテレビのチャンネルを回す。

「さわ子さん、牛乳、わたして」

口が、滑った。
一瞬顔を曇らせて、それでも、真っ直ぐに私を見つめて言った。

「さわ子さん、牛乳、こっちに渡して」

どこまでが遊びなのか。
境界線は広がっていく。
手をつないで抱きしめて、唇を塞いで抱き合って、夜を過ごして朝食を食べる。
それでも、押し広げてはいけない一線がある。

「どうぞ、生徒会長さん」

生徒会長さんと、先生。
それだけは、変えてはいけない。
二人で守るはずのその要塞を、生徒会長は壊そうとしている。
それは、裏切りだ。

「ところで、生徒会長さん、唯ちゃんとは最近どうかしら?」

生徒会長さん、生徒会長さん、なんどでもそう呼ぶ。
思い出しなさい、あなたが私と一緒にいるのは、どうして?

「さわ子さんのお陰で、少しは進展したかな、と思いますよ。見た目だけは綺麗な、さわ子さんのお陰で、ね」

そう、あなたが本当に抱きしめたいのは、あの少し間の抜けた可愛らしい幼馴染のはずで、
私が一緒に時間を過ごしたいのは、生涯の伴侶となれる男性のはず、だから。
そんな風に、瞳を潤ませて、上目遣いに私を見ては、いけない。

「そう、私もね、ちょっとはしっかりしてきたでしょう、あなたと一緒にいるからね」

だから、そんな顔をしてはいけない。
そんな、嬉しそうな顔を。

幼馴染のことが気になって、意識してしまう自分が嫌いで、それで、ただ自分が同性愛者なのではなく、
幼馴染のことが、その人間性が好きなのだと、確認しようとしていた。
それで、"見た目だけはいい"私の傍にいた、はずなのに。

「そうだね、私の傍にいるから、ね。私が、傍にいるから……」

そんな風に、瞳から涙をこぼしながら笑ってはいけない。
私は、冗談交じりの花嫁修業で、この娘と一緒にいるだけだから、震える手を、彼女の頭において、
その真っ直ぐで短い髪の毛を撫でてはいけない。

「……そう、ね」

急いでトーストを頬張って、浴室へ向かう。
彼女の顔を見ないために逃げ出したのに、鏡は残酷にも、私の後ろにいる女の子の顔を映しだした。

「逃げちゃ、だめ、ですよ、先生」

かすれる声で途切れ途切れに言って、羽織っていたドレスシャツを脱ぐ。
細い腕が、私の首に回される。


「ねえ、今日、休日だから」

分かっている。私が抱けば、この娘は喘ぐ。
まるで断末魔のような声を上げて。

「あなたは、目的を見失ってるわよ。手段が目的になってる」

彼女の腕に手を触れてみるけれど、細いその腕は、鎖よりも力強く私を拘束していた。
チューナーが壊れたなら。
そんな考えが頭に浮かぶ。

「さわ子さんが選んで。さわ子さんは大人だから……だから、さわ子さんが選んで」

震える声で生徒会長が言う。
チューナーが壊れたなら、ギターの音が合わなくても、しようがないんじゃないか。
だって、絶対音感なんて無いもの。

「そうね、私が選びましょう。ねえ、文句は言わないでね?」

ギターを鳴らせば不協和音。
アンプに繋いでエフェクターを使って、目一杯音を歪ませて、そうすれば、汚い不協和音は、きっと聞こえなくなる。

「うん、そう、こっちを向いて……そう、いい子ね」

彼女の柔らかい唇を塞いで、若さを踏みにじった。
彼女の喘ぎ声しか聞こえないから、少しは気分が良くなった。

「和ちゃん」

全てが終わって、ようやく私はそう呼んだ。そう、呼んでしまったのだった。



おわりです。