昼休み明けの教室、窓の外は雨模様になっていた。

「何だ田井中は休みか?」

「はい、体調が優れないらしいので早退しました」

クラス委員がそう誤魔化した。
誰も昼休みの事件に触れてはいない、皆が気をつかってくれている。

肝心の彼女は上の空で、肘をつきながらグラウンドの水溜りを見つめていた。

(本当は怒ってなんかないのに)

(どうしてあんなことしちゃったんだろう……)

飛び出してしまった少女のことばかり思い浮かぶ。

(律濡れてないかな? あいつ傘持ってきてたのかな)

雨音は強さを増している。


……

昼下がりの街、少女はうつむきながら家路を急ぐ。

春時雨が容赦なく打ちつける、道路には水溜りが作られていた。

傍らを車が通り盛大に水をかけられたが気にも留めない。

なにも考えないように、彼女のことを考えないように、ただ、歩いた。

「…ただいま」

返事はなかった。
家族がいないことを確認すると、
濡れた制服を脱ぎ捨て暖かいシャワーを浴びた。

着替えを済ませ階段を上り、力なく部屋に入る。
ベッドにもたれ込み、枕を引き寄せ顔をうずめた。
雨音はますます強くなっている。

「ううっ……」

(おい、泣いてるのか? 私)

「ひぐっ……」

(澪に嫌われた……)

「……うぇぇ」

「うわああああああああああああああああぁぁぁぁぁ」



五月一日 晴天

澪は一人で学校に来た。

抜けるような青空は、彼女の心を躍らせはしなかった。

(今日こそは律に謝ろう)

(あんな顔は見たことがなかった……)

思い出すと胸が塞がる、これ以上立ち入れない気がしてくる。

(……でも)

重い足取りで校門のあたりに差し掛かると
他クラスの友達が声をかけてきた。

「おはよう澪ちゃん」

「ああ、おはよう」

「いい天気だね」

「うん、そうだね」

我ながらつまらない受け答えをするものだ。
そのまま足早に別れると親友の居るであろう教室に向かっていった。


……

朝の十時を過ぎたころ、律が目を覚ました。

(あれ? 私ゆうべどうしたんだっけ…)

布団に潜りながら記憶をたどった。
澪に叩かれた事を思い出し、また泣きそうになる。

布団からは這い出たものの、膝を抱えるしかなかった。

(うう……)

(こんなの……私らしくない、おかしーし……)

「助けてよ……澪」

ごめんな澪、素直になれなくて。
分かったろ、私なんてただの子供なんだ。
だから澪、大丈夫だよな私なんかいなくても。
あの頃に比べたら成長してるよ、人見知りもだいぶ直ったし。
そうだろ澪、一人でも大丈夫だよな。

(でも、寂しいよ……)

私の心は深い海に沈んでしまったんだ。
お前は潜ってくれるだろうか、私の手を掴んでくれるだろうか。

もう一度笑いたいんだ、澪と一緒に。


……

「律?」

気づいた時には飛び出していた、校舎を背に律の家へと向かう。

呼ばれたんだ、私は。
呼んだんだ、律が。

脇目も振らずに走った。

わかったんだ。
強いはずのあいつが、本当は強がっていること。
誰も傷つけないあいつが、誰よりも傷ついていること。

気づいたんだ。
私たちは二人だって事を、もう一人と一人には戻れないんだ。

(ハァ、ハァ……)

(体力ないな、私)

どこまでも潜るつもりだ、律が待っているんだから。



階段を昇る音が聞こえる。

(わかるよ、足音だけで)

足音は部屋の前まで近づいてきた。

(あやまりに来たんだろ? 私が呼んだから)

ドアが開いた。

「澪」
「律」

声が重なった。
沈黙が部屋を支配したあと、やがて律が声を発した。

「そっ、そちらからどうぞ!」

澪が返す。

「おっ、お前こそ!」

「じゃあ同時に言うぞ?」

もう二人はいつもどおりに戻っていた。

「「……せーの」」

「「ごめんなさい」」


「まだ泣いてるのか? 律」

澪は律と寄り添うようにして座っている。
顔は見ていない、触れた肩でわかった。

「うっ、うるへー」

「もう泣くなよな」

「へへっ、恥ずかしいところをお見せしました」

ようやく律にも笑顔が戻り、澪の肩に寄りかかる。

「なあ、澪」

律は正面に向き直り、静かに口を開いた。

「また勉強教えてくれる?」

「いいよ」

「同じ高校行こうな」

「もちろん」

「穿いてるパンツの色教えて」

「ああ、今日は……」

「……っと」

澪はそう言うと、こめかみを傍らの少女に優しくぶつけた。

「あいたっ」

「あぶないあぶない、口車に乗るところだった」

よかった、やっぱりいつもの澪だ。

「そんなことより寝てなよ、風邪なんだろ?」

はて、私は風邪なんかひいてたっけ?

「昨日は大雨だったもんな。お前のことだから傘なんて持ってこなかったんだろ?」

やれやれ、そこまでお見通しか。

「それにちょっと熱っぽかったしな」

おいおい、今のでわかったのか?
でも澪が言うならその通りなんだろうな。

「うん、そうする」

短く言って私は布団に潜りこんだ。
そこでちょっとしたワガママを言ってみる。

「えっと……寝るまで手、握ってて」

(子供かおまえは、ああ恥ずかしい)

「ちょっと窓開けていいか? 五月って意外と暑いな」

「ねー、みーおー」

顔の火照りを冷ますため、私はわずかに窓を開けた。
さわやかな春風が吹き込んでくる。

「ん、すずし……。というわけで手、握って」

病人の頼みを断るわけにもいくまい。
私はベッドの脇に座り、右手を律の左手にそっと重ねた。

「ありがと」

目の前の少女はうとうとしその横顔を私は……
って、もう寝てるし。

よっぽど張り詰めてたのかな。私悪いことしちゃった、あんな態度とるなんて。
昨日の昼休みを思い出したとき、目頭が熱くなった。
さっき律に、『もう泣くなよな』なんて言ったのはどこのだれだっけ?
すすり泣く声を聞かれないよう、左手で顔を覆った。

バカ律、私だって寂しかったんだからな。昨日だって眠れてないし。
ああ、どうか泣いてることが律にバレませんように。
もう面倒だ、寝ちゃおう寝ちゃおう。

「ん……」

澪が目覚めたころ、すでに日は低くなっていた。
ベッドの上の少女はまだうとうとしている。

手をつないだまま、聞こえないように、でも少しだけ聞こえるように澪は語りかけた。

「これからもよろしくな、律」

茜色の夕日が二人を包んでいる。
少女は目を閉じたまま、少しだけ照れくさそうに笑った。


――

三年後

桜高音楽準備室

四人で始まった軽音部、新入生の梓が入部し五人となった。
とはいえ何か変わるわけではなく、
今日もミーティングという名のお茶会が行われていた。
いつものように律が澪を怖がらせている。

「でさでさ、糸ノコは鎖を切るためじゃなかったんだよ」

「ひいぃ」

「真ん中の死体が実は……」

「コワイコワイコワイ」

「犯人は部屋の……」

澪が拳を振りかぶった。

「あれ、澪しゃん?」

「きょ、今日は勘弁しといてやる」

唯が紬に小声で話しかける。

「ねえねえムギちゃん、今日って何の日だったっけ?」

「うふふ、今日はメーデーっていうの。ヨーロッパで行われてる
春を歓迎するお祭りのことでね」

「ふんふん」

「若い女の子の中から『五月の女王』が選ばれるの、その日は国王も王妃も
その子に従ってみんなでお祝いするの」

「へえ~ステキだね、じゃあ澪ちゃんがお姫様かあ」

「うふふ」

「ねえ、あずにゃんはどう思う?」

「わ、私ですか?」

普通メーデーといったら労働者の日でしょう、
この人たちは授業で何を聞いてたんですか?

「でも……」

(意外とお姫様は律先輩のほうかも)

「えっ、あずにゃん何?」

「何でもないです、さあ早く練習しましょう」

「だとさ、律」

「もうちょっとあとでいいだろ~」

「あのことをバラされたければ別だけどな」

「何のことざんしょ」

「因数分解」

「さあ練習だ、皆の衆」

「え、あのことって何?」

「唯先輩、練習しましょう」

「あずにゃん……」

「じゃあ片付けるわね」

「ムギちゃんまで」

紬は律と澪を見つめていた。二人の間に何があったのか、
無理に聞くことはない。
むしろ秘密にしておいたほうが素敵かもしれない。

そんなことを考えながら、紬はティータイムの片づけをしていた。

おわり