まだ誰もいない朝日が差し込む部室は、ひんやりとしていてもう冬がすぐそこまで
来ていることを私に教えてくれていた。
私は一人じゃ広すぎるくらいの部室で、小さく息を吐いた。
白く染まった私の息が、冷えた空気に溶けていく。
時計の針の音が、妙に大きく聞こえた。

「十、九、八……」

あの人を待つ時間は、長い。
あの人はいつも、待ち合わせの時間を過ぎてから、いたずらな笑顔を浮かべながら
現れる。

「五、四、三……」

もう教室に戻ろうかと思ったら、まるで計った様に私の前に立っている。
そういうところ、ずるいと思う。

「二、一……」

ぜろ、と言う前に部室の扉が小さく軋みながら開いた。
「待ったか?」というその声は、私を気遣うというよりからかっているように
聞こえる。
私はそれに答える代わりに立ち上がった。

「遅いです、律先輩」

「仕方ないだろ。澪を撒いて来んのは結構大変なんだから」

別にやましいことをしてるわけじゃない。
だけど、私たちは朝、こうして部室で会っていることは誰にも話していなかった。
律先輩がどういうつもりで話さないのかは知らないけど、私は何となく、
内緒にしていたかった。

律先輩は面倒臭そうに持っていた鞄を放ると、欠伸をしながら私に近付いてきた。
自然と肩に力が入ってしまう。
律先輩はそれに気付くと、小さく笑みを漏らした。

「梓、いまだに緊張してるの?」

「先輩と二人きりだったら普通、緊張しますよ」

本当は少し嘘が混じってる。
“律先輩と二人きりだったら”が正しい。
律先輩はそれをわかってるのかわかってないのか、くしゃくしゃ私の頭を乱暴に
撫でると、「さて」と呟いた。

「今日はどうする?」

私たちが朝会う理由なんて、ない。
それなのに明日は何時に待ってるなんて言って、私を待たせる。
何もないのにどうして、と思う。
私の気持ちをわかってるうえでこんなことをしてるんだったら、律先輩は随分と
酷な人だ。
もっともそんなことは絶対にあるわけないんだけど。

いつからだったかは、よく覚えていない。
秋が深まってきた頃だった気がする。
朝偶然、前の日の忘れ物を取りに部室に行くと、律先輩がいた。
律先輩は、机にうつ伏せになって眠っていた。
そんな先輩の周りには、沢山の教則本だったり、古びた音楽雑誌だったりが
積まれていた。
たぶん、その日から。
私の気持ちが歪んだものに変わってしまったのは。
そして律先輩が朝私を部室に呼び出すようになったのは。

「昨日と同じく勉強、しましょうか」

「えぇ」

「えぇじゃないです。先輩受験生じゃないですか。私も付き合いますから」

期末試験はつい先日終わったばかりだったけど、律先輩がそれで勉強してくれるんなら
それでいい。
わかったよ、と頬を膨らませながら、律先輩はさっき放ったカバンから教科書やら
ノートやらを出し始める。
一応受験生と言う自覚はあるらしい。去年なんか、カバンの中はすっからかんだったのに。


去年、か。

不意に私は思い出す。
初めて軽音部に訪れた日のこと。律先輩が「確保ー!」と言いながら私に襲い掛かって
来たんだっけ。
あの時は怖いとか、仲良くなれそうに無いとか思っていた。
だけどいつの間にか“接しやすい、頼りになる先輩”に変わっていた。
それだけだった。それだけで良かった。

何で気付いてしまったんだろうと思う。
私たちは同性で、歳だって違う。なのに。
私は唯先輩や澪先輩、ムギ先輩に感じる気持ちとは違った気持ちを、この人に
抱いてしまった。

律先輩のことが好きだった。
今ではもう、抑え切れないくらい。

律先輩はずるい。肝心なことは何も知ってくれない。
私の好きなものや、嫌いなものを知ってるくせに。
私の気持ちは、何もわかってくれない。
知られたらこの関係は終わりだってわかっているけれど。

そんな矛盾した考えを、私はもう何度も繰り返した。
今だって、喉まででかかった言葉を必死に飲み込んでいる。

「梓?」

名前を呼ばれた。どうやら呆としてしまっていたらしい。
私はすいません、と律先輩の前に座った。普段は澪先輩の特等席だけど、今だけは
私の場所。
律先輩は、教科書を広々とした机に乱雑に広げながら、「うーん」と腕を組んだ。
問題を解こうと頑張っているんだろう、だけどその顔が必死すぎて、私は思わず「ぷっ」と
噴出してしまった。

「なんだよー?」

「何でもないです」

私は笑いながら答えた。律先輩が「むう」とまた頬を膨らます。
それから、急に思い出したように「あ」と言って時計を見た。
もうそろそろ、他の人たちが登校してくる時間だった。

「そろそろばれないように退散するか」

「……そうですね」

今日は律先輩が来るのがいつもより遅かったせいで、殆ど何も話せなかった。
いつも何かを話しているわけじゃないんだけど。
急に萎んだ私の声に気付いた律先輩が、「明日は8時前な」と言って私の頭を
撫でてくれる。

「撫でないでくださいよもう」

「好きなくせに」

にっと笑いながら律先輩が私の頭から手を離した。
律先輩は赤くなった私を満足げに眺め、もう生徒の姿がちらほらと見え始めた校門に目を
移す。誰かの姿を探しているようだった。

「律先輩?どうかしましたか?」

「……いや、何でもない。ほら、教室戻るぞ」

私が訊ねると、律先輩は一瞬戸惑った表情を見せた。
しかしすぐにいつものふざけたような顔に戻って、私の背中を押す。
私はもう一度だけ、律先輩の顔を見上げると、「自分で歩けます」と律先輩の手から
逃れるように距離をおいた。

――――― ――

「梓、最近来るのはやいね?」

教室に戻り机の中を整理していると、疲れた声が聞こえた。
顔を上げると純がいた。

「あ、うん……」

純にも何も話していないから、私は曖昧に頷くことしか出来なかった。
普段の純なら見咎めて「何よ」としつこく聞いてくるはずなのに、今日は何も
聞いてこなかった。それどころか、大きく溜息なんて吐いたりしている。

「えっと、何かあったの?」

「梓ぁ」

気になって訊ねてみると、純は私に抱きついてきた。まるで唯先輩みたいだ。
純は鞄を持ったままだったので、その鞄が顔に当たって痛い。

「ちょ、何よ純!?」

「澪先輩の話、聞いた?」

純は私に抱きついてきたまま、言った。
私は「知らない」と首を振った。
けど、なぜか頭の中でさっき見た律先輩の横顔が過って気持ちが沈む。
聞きたくないと思っている自分に気付いて、私はそれを振り払うために純に続きを
促した。

「えー、梓も澪先輩のファンだから知ってると思ってたんだけど」

「確かにファンなのはファンだけど……それで本当になんなのよ?」

「何かファンクラブの子数人が、澪先輩に告ったらしいよ?」

純の話じゃ、昨日、澪先輩のファンがよってたかって「好きです!」とか何とか言っていた
らしい。その時テンパって何も言えなかった澪先輩を無理矢理傍に居た律先輩が連れ去ったとも。
そこで律先輩の話が出るんだろうなということはわかっていたけどやっぱり変な気持ちに
なってしまった。

「あーあ、まだ澪先輩返事返してないらしいけど、私もその中に混じってれば良かったなあ」

「……純はさ、女の子同士の恋愛とか、肯定、してるの?」

純の言葉に、私は思わず顔を上げて聞いてしまった。
私の顔があまりに真剣だったのかも知れない、純が「やだなあ」と笑いながら
私から離れた。

「本気なわけないじゃん、たぶん殆どの子もそうなんじゃないの?憧れの澪先輩と
お近づきになりたーい、とかそんな軽い気持ちなんでしょ」

「……そう、だよね」

乾いた笑いを漏らしながら、私は純から目を逸らした。
案外勘のいい純だから、何かを感づかれたのかもしれない。
取り繕うように、「ま、でも本気の恋愛なら否定はしないけどね」と付け足した。
私はその場の雰囲気を変えたくて、別の話題を提示しようと口を開いた。

「でも何で皆一斉に、しかもこんな時期に澪先輩に告白しようとしたのかな」

けれど出てきた話題がそれだ。私はまだ引きずってしまっているらしい。
また律先輩のことが頭に出てきて、ぶるぶると頭を振る。

「何でってそりゃあやっぱりあれでしょ?もうすぐクリスマスじゃん。だから
だと思うよ。彼氏いない子がせめて憧れの人とクリスマスを過ごしたいーって感じ?」

「あぁ……そっか、もうすぐクリスマスなんだ」

「あぁそっかって……梓、あんたも一応女子高生なんだからそういう話題に興味
持ちなさい。まああとは、澪先輩三年生でもうすぐ卒業だからってのもあるんだろうな」

クリスマスに、そして卒業。
二つの言葉が私の上に重く圧し掛かる。
律先輩は誰とクリスマスを過ごすのだろうか。去年は一緒に過ごせたけど、
今年は先輩たちは皆受験生で、クリスマスパーティーというものがないということは
わかっている。

「クリスマス、か……」

頭の中で、実際見たわけでもないのにファンの子に集られた澪先輩の手を引いて
その場から逃げ出す律先輩の様子が浮かぶ。
実際には私が思い描いているように格好良くはないんだろうけど、でも澪先輩のことを
考えてそんなことをしたんだろう。ファンの人になんと思われようとも。

律先輩の恋人になんてなれないってわかってる。でも、せめて“友達”として
一番になりたいと思った。だけど、たぶんそれも無理で。
いつのまにか澪先輩に嫉妬している自分が居る。こんな自分が嫌になる。

「なに溜息ついちゃってんの?大丈夫、一人身なのは梓だけじゃないから!ていうか
殆どの人がそうだろうしさ!」

「……ありがと」

私の溜息の意味を取り違える純に、私は弱弱しく笑って見せた。
こんな気持ちも何もかも、消えちゃえば良いのに。

――――― ――

放課後、純からの話を聞いていたから何となく予想はついていたけど、澪先輩は
部室に来なかった。律先輩も、今日は来ないとムギ先輩から聞いた。

「澪ちゃん、昨日大変だったもんねー」

唯先輩が、ムギ先輩に淹れてもらった温かいお茶を冷ましながら呟くように言った。
ムギ先輩はほくほくした表情で「私だったら全員オッケーしちゃってるけど」なんて
言ってる。

「あの、私今日はもう帰りますね」

部室に居辛くて、私は腰を上げた。
ムギ先輩も唯先輩も、意外そうに私を見る。

「珍しいねあずにゃんが早く帰るの」

「風邪?大丈夫?」

普段私はどんなふうに見られているんだろう。
私は「大丈夫ですから!」と言いながらコートを羽織ると、足早に部室を出る。
下駄箱に向かう途中で、三年生の廊下を歩いていると、律先輩の声が聞こえた気がした。
立ち止まって声の聞こえた教室を覗き込むと、澪先輩と、そして律先輩がいた。
私は何も見なかった振りをして、その場を走り去った。

外に出ると、空は真っ暗だった。今夜は雪が振りそうだ。

――――― ――

「え?今なんて……?」

「だから、今月の24日空いてるかって聞いてんの」

律先輩は、どうしてか私のほうを見ずに訊ねてきた。
変なことばかり頭に浮かんで眠れなかった私は、頭の回転が鈍くなってしまっていた
らしい。一瞬、何を言われているのかわからなかった。
数秒間律先輩の横顔を見詰めた後で、漸く律先輩の言葉を理解した私は、
「はい」と小さな声で答えた。
窓の外に積もった雪が、朝灯に照らされ白く眩しかった。
律先輩は私の返事に「そっか」と言うと、私に向き直る。

「ならさ、一緒に遊ばない?」

「またパーティーですか?いいんですか、こんな時期に……」

まさか自分ひとりが誘われてるとは思えなくてそういうと、律先輩は
「パーティーじゃなくってさ」と私の声を遮った。

「梓はつまんないかも知んないけど。二人だけでどっか行こうって」

今月の24日はクリスマスイブ。
私は驚いて、しばらく何も言えなかった。
律先輩は「やっぱ無理?」と苦笑する。慌てて首を振った。

「だめなんかじゃないです!律先輩がいいんなら私は構いません!」

あぁ、なんか変なことを言っている気がする。
けどあまりに唐突な律先輩の言葉が嬉しくて、昨日までの嫌な気持ちさえ吹っ飛んで
しまった。
律先輩はもう一度「そっか」と言ってから、今まで見せたことの無い笑みを浮かべた。
その笑顔は、浮つく心の奥底で私を不安にさせた。
それでもその時の私は、その不安なんか気付かなかった。

――――― ――

律先輩に誘われてから約一週間、私の心は弾みっぱなしだった。
だけど前日になってテンションが上がりすぎて冷静になった私は、何で突然律先輩が
誘ってきたのかや、澪先輩のことが頭にちらついてしまい、不安な気持ちが競りあがっていく。

結局一睡も出来ずに、私は律先輩にメールで送られてきた待ち合わせ時刻の30分前には
待ち合わせ場所に着いてしまっていた。
しかし驚いたことに、律先輩のほうが私よりも早く来ていた。
それがいつもと違って、さらに私の不安の募らせる。

「おはようございます、律先輩」

自然と小さな声になってしまう。
あまり見ることの無い私服姿だけじゃなく、今日は二人だけだということが私をより
緊張させていた。

「早いなあ、梓」

「律先輩こそ充分早いじゃないですか」

「いつも梓を待たせてたからな。たまには梓を待ってようかなと。一時間前に
来といて良かったよ」

「一時間前ですか!?」

この寒い中よくも。
流石の私も少し呆れてしまう。

「寒くなかったんですか?」

見上げながら訊ねると、私を見ていた律先輩としっかり目が合ってしまった。
先に目を逸らしたのは私ではなく律先輩だった。

「寒いに決まってんじゃん」

律先輩はそう言って身震いすると、「だから暖めてよ」と言いながらポケットに
入っていた右手を唐突に私に差し出した。
暖めてよと言われてもどうすればいいかわからず困惑していると、律先輩の冷たい手が
私の手に触れた。


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