梓「……え?」

掃除当番で部室に来るのが遅くなってしまった梓は、
息を切らしながら部室の前に立っていた。
ドアを開けようと伸ばした手が固まり、
力が入らなくなってだらんとだらしなく垂れ下がった。
足が少しだけ震えていた。

今中から聞こえてきた、我が軽音部の部長の言葉を頭の中で繰り返す。

『梓?あぁ、あいつは苦手だな』

どくんどくん、と心臓が嫌な風に脈打っていた。

――――― ――
梓「こんにちはー……」

澪「あ、梓!」

唯「あずにゃん、良かったあ」

紬「昨日来なかったから皆心配してたのよ?」

梓「すいません」

律「何で昨日無断欠席したんだよ?」

梓「」ビクッ

梓「(いつもより冷たく感じる……昨日あんなこと聞いたからなんだろうけど)」グッ

律「梓?」

梓「すいませんでした、これからはちゃんと連絡するように気をつけます」

律「いや、別にいいけどさ」

唯「ま、あずにゃんも来たしお茶にしようよ!」

――――― ――

昨日、ショックが抜け切らないまま家に帰りついた梓は、すぐに部屋に入るとベッドにもぐりこんだ。
胸の奥がもやもやとしていた。
妙に苦しかった。

梓「(……私だって、律先輩のことなんか大嫌いだよ)」

他の先輩たちと比べて、部長の癖に不真面目でふざけているように見える律のことを、
梓は入部した当時からずっと、嫌いだと思っていた。

梓「(寝たらこんな気分、忘れられるよね……)」

制服のままで、皺がつくことがわかっていても起き上がる気力がなかった。
だから梓はそのまま、律の言葉を頭から締め出そうとぎゅっと目を閉じた。


梓「……」

梓「(あ、だめだ。昨日のこと思い出したらよけいに変な気分になってきた)」

ギターケースを開けながら、梓はふるふると首を振った。
あの時の気持ちがまた、胸の奥から競りあがってくる。

梓「(嫌いな人に苦手って言われたんだから、清々するはずなのに)」

紬「梓ちゃん?」

梓「は、はい!」


律「何ぼーっとしてんだよ?練習すんぞ」

梓「す、すいません」

慌ててギターを持って立ち上がろうとした。
しかし、慌てすぎたせいでギターケースに自分の髪の毛が挟まってしまった。

梓「いたっ……」

唯「あずにゃん大丈夫!?」

澪「梓、何かあったのか?今日ずっと暗い顔してるし……」

梓「そんなこと!」チラッ

律「……」

梓「……ないです」

唯「本当に?」

ギターケースの蓋を開け、梓の髪を救出しながら唯が心配そうに訊ねる。
梓は大きく頷いた。もう律のほうは見なかった。

梓「(思い切り目、逸らされたし……)」


紬「それじゃあ一度ふわふわ時間、合わせるのよね、りっちゃん?」

律「え?あ、あぁ、うん」

澪「律も律でどうしたんだよ、考え事?律に至って悩み事はないだろうけど」

律「ひどっ。私だって色々悩んでるんだからな!」

澪「はいはい」

律「梓」

梓「……はい?」

律「もう演奏できるな?」

梓「……はい」

律「」ジッ

梓「あ、あの……」

律「よーし」フイッ

律「んじゃあ行くぜ、1、2、3!」


――――― ――
梓「(……疲れた)」

帰り道、先輩たちと別れ一人で歩く梓は、背負ったギター以外の重みも肩に感じ
ながら足を進めていた。

梓「(思えば私、律先輩と今までちゃんと話したこと、あったっけ?)」

入部してから今までのことを振り返っても、梓は律とちゃんと話した記憶がまったく
と言っていいほどなかった。
それなのに「苦手」だと言われた。それに、今日の律の様子を思い出して、梓は
心まで重くなったように感じた。いつもの律なら、もっと笑顔で梓にちょっかいを
かけてくるはずだ。

梓「(なのに……)」

そこまで考えて、梓はその先の思考を断ち切った。

梓「何暗くなってんの、私」

わざと、自分に喝を入れるために声に出して梓は呟いた。
誰かが自分のことを苦手だとか嫌いだとか言っているのを聞いたら、きっとどんな
人間でも傷付く。 昨日からのショックが抜け切らないのはそのせいだ。

梓「(でも相手は律先輩だもんね、澪先輩や唯先輩たちじゃないんだから……)」

梓「……大嫌いなんだから」

昨日、思ったことを口にした。
何となくすっきりとした。
だけど、それでもまだ胸に何かが残っている気がする。
しかしそれを無視して、梓は晴れ晴れとした表情を浮かべてみた。

梓「(大丈夫、私!)」

――――― ――


次の日

梓「(よしっ、いつもどおりいつもどおり)」

部室の前で深呼吸。
何度も吸っては吐くを繰り返す。

梓「(これで律先輩さえ中にいなければ完璧なのに)」

そう思いながら、梓は部室の扉を開けた。
そして自分の運を呪った。

律「おっす」

中には律しかいなかった。
律は、読んでいた雑誌から目を上げることなく軽く手を上げて梓を迎えた。

梓「(最悪だ……まだ律先輩以外誰も来てない……)」

律「梓、座れば?」

梓「は、はい」

中に入って突っ立ったままだった梓に、
律がやはり視線を梓に移すことなく声を掛けた。梓は裏返ってしまった声で、
自分がまだ律の言葉を引きずってるのを自覚した。

律「……別に緊張しなくてもいいだろ?」

ぎこちなく定位置に腰を下ろした梓に、律が小さく苦笑した。

梓「……別に緊張してるわけじゃないです」

小さな声で、梓は答えた。
緊張してるわけじゃない。ただ、自分のことを良く思っていないと知っている人と
二人きりだと思うと、楽しそうになんてしていられるはずない。

律「そ」

梓「はい……」

特に興味もなさそうに律は言うと、再び部室に沈黙が訪れた。
仲の良い間柄の沈黙は、梓は好きだった。しかし、お互い嫌い合っている関係での
沈黙に、梓は慣れていない。 どうにも居心地が悪かった。

梓「……私、練習しますね」

だからその沈黙をどうしても破りたくて、梓はガタッと音を立てて立ち上がった。
さっき近くに置いたギターを手に取る。律が顔を上げてきょとんとした表情で梓を見る。

律「まだ皆来るまでゆっくりしてたら?」

梓「で、でも練習、しなきゃですし!」

梓「(それにこのまま二人っきりで黙ってるの嫌だし……)」

律「練習熱心だなあ」

梓「そういうわけじゃないですけど」

そう言いながら、梓はギターケースを開けると愛用のギターを取り出した。
すぐに雑誌に目を戻すと思っていたのに、律は梓がギターに触れる様子をじっと
見ていた。
視線を感じる梓が目を上げると、ちょうど自分を見ていた律と目が合った。

律「……」

梓「あ……」

やはりパッと目を逸らされ、梓はまた気分が暗く沈んでいくような気がした。
それでもそれを振り払うと、「よいしょ」と声を出して立ち上がる。

律「……私も練習しよっかな」

その時、ふいに律が呟いた。

ギターのチューニングを始めていた梓は、思わず驚きの声を上げてしまった。

律「なんだよー?」

梓「い、いえ、ただ意外だなっていうか……」

律「ふーん」

梓の言葉を聞くと、律は拗ねたように開いていた雑誌に目を落とした。
しかしすぐにそれを閉じると、立ち上がる。

律「もっと後輩らしくしろよなー」

頬を膨らませながらドラムセットの前に立つ律。
そこで梓は「もしかして」と思った。
今まであまり関わってこなかった律が自分のことを「苦手」だと言う理由。
それはもしかしたら、後輩の癖に生意気に「練習しましょう!」と言っていたりした
からじゃないだろうかと。

梓「す、すいません!」

だから梓は思わず頭を下げていた。

梓「(別に律先輩に嫌われててもいいんだけど……その辺りはちゃんと謝らなきゃ)」

頭を下げたまま、自分に対しての言い訳。
そして、顔を上げると、困惑したように梓を見る律の姿が見えた。

律「別に謝らなくてもいいけどさ……」

ドラムの上に置いてあったスティックを手に持つと、律は言った。
そのままドラムセットの前に腰を下ろすと、梓を見た。

律「一回合わせてみようぜ」

梓「え……」

律「嫌?」

梓「そんなことないですけど……」

呟くように梓は答えた。
律はもう、ドラムを叩いて音を確かめている。
仕方なく、梓もギターを構えた。

律「梓、いい?」

梓「はい」

頷くと、律は頭上にスティックを構えて叩こうとした。
その時、部室の扉が勢い良く開き、元気な声が響いてきた。

唯「やっほー!」

律「お、唯ー」

遅くなってごめんねと言いながら唯、そして澪に紬が入ってくる。
梓はほっとした気分でギターを下ろした。

澪「二人で練習してたのか?」

律「いや、練習つーか合わせようと思ったんだけど……」

ちらりとギターを下ろした梓を見ると、
律は「ま、いっか」と呟いた。

梓「(あれ?律先輩、私と一緒にいてもすることないからセッションしようって
言い出したんじゃないの?)」

律「ムギ、お茶にしようぜ」

紬「はーい」

梓の志向を遮るような律の大きな声。
紬が元気に返事をして早速お茶を用意し始める。
唯と澪がそれぞれの場所に座った。梓もそれに倣いながら、そっと律の様子を伺った。

梓「(やっぱり律先輩、私といるときよりすごく楽しそうな顔してる)」

梓「(……何か嫌な気分)」

――――― ――


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