――――― ――

職員室の外に出ると、待っていたムギのほかに、
なぜか唯と澪までがいた。

「待たせてごめんな、ムギ。ってか何で唯と澪もいるんだよ?」

「りっちゃん隊員が遅いからだよっ!」

「唯がな、梓に贈る曲の歌詞考えたから、まず律に見て欲しいって」

唯が自信たっぷりな顔をして、私にいつか見たノートを差し出してきた。
何で私が最初なんだ?と訊ねると、唯は「何となく!」と得意げな顔で言った。
私は呆れながら、ノートを開ける。

「先生、この曲のことは梓ちゃんにはまだ内緒にしててくださいね」

「わかってるわよ。その代わりお菓子二倍ね」

「お、大人気ないっ」

私は、あるフレーズのところで止まってしまった。
唯がえへへと笑う。

「“卒業は終わりじゃない”」

「“これからも、仲間だから”……?」

「そうだよりっちゃん!あずにゃんも私たちも!」

さわちゃんを見ると、さわちゃんはただ、
優しく微笑んだだけだった。


「このフレーズね、ほんとは和ちゃんが考えてくれたんだーっ。和ちゃんがね、
私にそう言ってくれたから」

唯は誇らしげな顔でそう言った。
そうだ、唯の幼馴染の和は違う大学に行くんだ。それなのに和は。
今まで悩んでいた自分が急に恥ずかしくて馬鹿らしくなる。
和はいつも、私が出来ないことをやってのける。
もちろん唯もムギも。私を受け止めてくれていた大きな傘は、澪だけじゃない、
皆や、それに梓だって。
今更そんなことに気付いた私は、ぐっと唯のノートを抱き締めた。

そして、梓のことを思い出す。
私は伝えなきゃいけない。皆が私に伝えてくれたことを。
そして、今度はちゃんと、部長として、一人の先輩として、そして仲間として、少しでも
梓のことを受け止められたらいい。皆や、梓が私にしてくれていたように。

――――― ――

窓の外では雪が降っていた。
部室には、誰もいなかった。

「あれ、あずにゃんは!?」

「唯、梓さっきはいたのか?」

「いた!私たちが律とムギ探しに行くって言ったら部室で待ってるって言ってたんだけど……」

久しぶりに戻った部室に、梓の姿はどこにも見えなかった。
ムギが「鞄はあるわ!」と言って携帯を開けた。梓に連絡してみるつもりなのだろう。
さわちゃんが椅子に座りながら呑気に「トイレじゃない?」と言ってぼんやりした視線を
外に向けた。「あら、すごい雪」と呟く。

「でもでも、今日のあずにゃん変だったし……」

私は踵を返していた。
玄関に向かって走る。後ろからムギや澪の声が追いかけてきたが振り向かなかった。
もしかして、という思いが私を突き動かす。
玄関まで来ると、和と会った。

「律?」

「悪い、今急いでるから」

靴を履き替え、雪野降る中飛び出そうとした私を、和が呼び止める。
「律、これ!」と和は何も訊ねることなく、私に和の持っていた大きな傘を
貸してくれた。それを受け取り、「ありがとな」と礼を言って、改めて外に飛び出した。
後で和にはちゃんとお礼を言わなきゃ、と思いながら。

コートを着たままだとはいえ、雪でおまけに風もあるから震えるくらい寒い。
それにまだ夜ではないのに、天気のせいか暗かった。
それがあの日の夜と重なる。
でも、大丈夫。今の私は、ちゃんと信じられる。ちゃんと梓に言える。
そう自分に言い聞かせて、私は進んだ。

――――― ――

「風邪引くぞ、あーずさ」

「っ!?」

降り頻る雪の中、寒そうに身を縮めながら祭壇の前に蹲る梓は、驚かそうという
魂胆は全くなかったのに、随分と驚いてくれた。梓の唇が「りつ、せんぱい」と動いた。
そして激しく咳き込む。私は慌てて傘をさしかけて、腕を引っ張り立たせた。

「って、もう風邪引いてるじゃん」

「すいません……」

「ほら、戻るぞ、コートも着ないでよくこんな寒い中いれたな」

「律先輩、部活は?」

「梓がふらふらどこかに行っちゃうから。何でこんなことしたんだよ?唯なんか
真っ青になってたし、梓が変な気でも起こしたんじゃないかって」

実際にはどうか知らないが、唯が梓を心配していたのは本当だ。澪もムギも、私だって。
梓はまた「すいません」と項垂れた。

「最近の私、確かに変でしたよね。自分では明るくしようとしてたんですけど、
どうしても先輩たちがいなくなることを考えると怖くって」

「……そっか」

「だけど心配掛けちゃだめだって思ったんです、結局迷惑掛けちゃったんですけど」

支離滅裂な梓の言葉。
自分でもきっと、何が言いたいのかわからないのだろう、必死で言葉を捜しているように
見えた。

「私、心配かけないように軽音部続けられるように、ちゃんと部長にならなきゃと思って」

「梓なら私よりいい部長になれるだろ」

ここでいつもの如く、「当たり前です」と言うんだと思っていた。
そう言って笑って欲しかった。
しかし違った。

「……違うんです」

「え?」

「律先輩じゃなきゃ、だめなんです……っ!ギターだって唯先輩じゃなきゃだめだし、
澪先輩やムギ先輩がいなきゃだめなんです!」

あの夜と同じ距離にある梓の大きな瞳は、
やっぱりあの夜と同じく濡れていた。

「先輩方がいなきゃ意味ない……っ、こんなこと言っても困らせちゃうだけだけど……でも私、
いくら頑張ったって律先輩みたいになれないんです、先輩みたいな部長になりたいのに、私は……」

「梓」

私は最後まで聞かずに、梓の声を無理矢理遮った。
最後まで聞くことが出来なかったわけじゃない。
最後まで言わせたら、梓はずっと気にするだろうから。
なんて、これもやっぱり自分に対する単なる言い訳なのだが。

「いいよもう」

全部受け止められる自信がないだけだ。
梓の苦しみから、少しでも逃れようとしている自分がいる。

全部受け止めたいと思ったはずなのに。ちゃんと伝えなきゃいけないことがあるのに。
梓の不安が自分に乗り移ったみたいに怖気づいてしまう。
梓は私の声にはっとしたような表情を見せた。

「すいません」

何度目だろうか、梓のすいません。
心なしか、梓の頬は赤く染まっているようだった。
それに足元もおぼつかない。

「梓、お前熱……!」

「律先輩、覚えてますか……?」

「……え?」

「私、が、……って、訊いた……と」

――――― ――

『私が律先輩はどうして軽音部で演奏しているんですかって訊いた事』

『あの子、りっちゃんみたいな部長になりたいって言ってたの、健気ねえ。あぁ、でも納得だわ、だから
りっちゃんに似てきたなって思ったのね、私。梓ちゃんなんだかんだ言ってもあなたたちのこと大好きだし』

喘ぐような梓の声と、さわちゃんの声が重なる。
傍で穏やかな寝息をたてている梓の横顔を見詰める。
脳裏に記憶の断片が映し出されていく。

多分、私が二年生のときだったと思う。
初めて部室で二人きりになった日、梓は突然聞いてきた。

『律先輩はどうしてこの軽音部で演奏してるんですか』と。
その時の私は、なんと答えたのかよく覚えていない。
しかし、『自分のため』と言った気がする。

廃部しかけた軽音部を再建したのも、最後まで続けたのも、きっと自分のため。
今でもずっと。自分が、音楽が大好きだから。

梓の汗ばんだ額に手を当てた。
外はもうすっかり暗い。倒れてしまった梓は、あの後すぐに追いついてきた唯たちが呼んだ救急車で
病院に運ばれた。一時期危険だったが、今は解熱剤のおかげで落ち着いている。
熱が完全に下がれば、明日にでも退院できるそうだ。
梓の家族は夜泊まりこみで梓を看ると言って荷物を取りに一旦帰って行った。唯たちも、
外に出たっきり戻ってこない。

「無理しすぎだっつーの」

私は呟くと、梓の眠るベッドに頬杖をついた。
さわちゃんや、唯伝いに憂ちゃん(救急車を呼ぶとき間違えて憂ちゃんにかけてしまったらしい)に聞いた話じゃ、
梓は私たちが四人とも同じ大学に行ける様に毎日お参りしていたらしい。
だからあの日の夜も、今日だって、お参りするためにあの神社に行ったんだろう。

ふと時計を見ると、面会謝絶時間までもうあと少しだった。
梓とは明日話せるし帰ろうかと立ち上がりかけたときだった。梓が小さく身動ぎをした。
ゆっくりと目を開けた梓は最初、自分がどこにいるのかわからなかったらしく、傍にいた私を見ると
ガバッと起き上がった。

「律先輩!?ここ……」

「病院。梓、ひどい熱出して倒れたんじゃん」

「あ……」

徐々に思い出してきたらしい梓は、真っ赤ではなく真っ青になっていった。

「熱、まだある?しんどい?」

「あ、あの律先輩、私勝手に部室抜け出して……」

梓は私の問い掛けには答えずに、また「すいません!」と頭を下げた。
どうやら今日は一日ずっと熱があったらしい。
だからさっきの梓はやけに素直に話したんだなと納得する。

「熱でぼーっとしてて正直よく覚えてないんですけど……雪が酷かったから、あずにゃん三号を
助けにいこうとしたんです」

「あずにゃん三号?」

「あ……っ。えと……神社にいる、野良猫、です」

梓は上目遣いに私を見ながら言った。
私は笑いを堪えながら先を促す。

「そのあずにゃ……猫を神社の屋根があるところに避難させた後、動けなくなっちゃったんです」

「そこで私が颯爽登場ってわけか」

梓が「そうですね」と小さく笑った。でも何となく、
梓が部室を抜け出した理由は他にある気がした。一人の部室が嫌だったからなんじゃないか。
梓の横にある窓ガラスは曇っていた。短い沈黙の後、何か言おうと私は思考をめぐらせた。
しかしそれより早く、梓は口を開いた。

「……先輩、私が言ったこと、気にしないでくれて良いです、あの、あれは単なる妄言って
いうかですね……だから」

「覚えてるよ」

「え……?」

「梓が私に変な質問してきたこと。自分がなんて答えたかはよく覚えてないんだけどな」

梓は驚いたように私を見て、恥ずかしそうに俯いた。
それから、言葉一つ一つを搾り出すようにして、梓は言った。

「『自分のためなんじゃない?私は部長とかそういうの以前に一人の音楽好きだからな』」

あぁそうだと思い出す。
確かに私はそういった。胸を張って誰かの為なんてことは言えないし、言う気もない。
好きでやってることなんだから、自分のため。
演奏することで私は自分の弱さやずるさを忘れていられる。音楽の土台であるドラムを
叩いていると、皆の全てを受け止められるような、そんな錯覚を覚えた。
だから、誰かのためとかそんなつもりで叩いてるわけじゃなかったけど、誰のためと
問われれば自分のためなんだろうと思う。

「私、律先輩がそう答えたとき、初めて律先輩が凄いと思ったんです。その日から、私は律先輩みたいな
部長になりたいって思うようになりました」

梓は「悔しいですけど」と付け足して、言葉を続けた。

「でも……いざ先輩たちの卒業が近くなって、私が部長になるんだと思うとわからなくなって。だから先輩の真似しよう
と思ったんです、明るく笑って何があっても泣かないって」

『部長っつーもんは、皆のリーダーなんだし涙は見せちゃいけないんだぜ!』

ふざけて唯にそう言っていたことを思い出す。
そして、泣きそうになりながらもぐっと堪えていた梓を。
私のあの言葉が、梓の涙を塞き止めていたのか。

「けどやっぱり全然だめで、先輩たちが卒業の話をしてたりするだけで、
自分が置いてきぼりな気がして……」

馬鹿だなあ、と思う。
置いてきぼりなわけないのに。けど、自分だっていつか皆離れてしまうんじゃないかって
思ってた。本当は、今でも少し。
やっぱりまだ、私は弱いままで、梓にとっての大きい傘になんてなれない。
梓は言葉が欲しいんだと思う。確実な言葉が。

「律先輩、先輩たちが卒業しても軽音部はなくなりませんか」

面会終了の報せが梓の声と重なった。
外から、誰かの走る音が聞こえた。梓の家族が戻ってきたんだろう。
私は何も言わずに腰を上げた。そのまま病室のドアを開ける。

「律先輩……」

梓の不安そうな声。
私はそれを聞かない振りをして、そして梓を振り向いた。
目に一杯の涙を溜めた梓と目が合う。

「梓は自分らしくでいいんだよ」

私は言った。今はこれしか言えない。
もし軽音部がばらばらになったら、なんて考えたくも無いし、そんなこと絶対にないけど。
もしものときは辛いから。自分を守るための予防線。
だけど、梓が新しい軽音部で部長になっても、私たちにとっては大切な後輩なんだから。
私の真似なんかしなくていい、自分らしく、今の梓のままでいて欲しい。

梓は何も答えなかった。
だから私はそのまま病室を出た。

ちゃんと「永遠に一緒」だと信じられたとき、その時に梓に、そして自分自身に伝えよう。
みんなが伝えてくれたことを。
それまでは、忘れないように、私たちの曲を歌い続ける。自分のためにも、梓のためにも。
そう思ったとき、私は気付いた。本当に簡単な答えに。

――――― ――

「あ、りっちゃん!」

外に出ると、唯たちが待っていた。病院の人に追い出されたらしい。
けど私は、皆が気を遣ってくれたんだと勝手に思うことにした。
そういえば、いつのまにか雪は止んでいた。

「明日晴れるといいわねえ」
「合格発表の日だもんな」

ムギと澪が、暗い空を仰いでいった。
唯が晴れるよ!と自信満々に笑った。

「だといいな」

皆これからもずっと一緒にいれればいい。
今はまだ、わからないけど。

でも、私たちはきっと離れないんだと思う。
だって、私たちは私たちの歌で繋がってるんだから。

何だかすっきりした。今なら梓にちゃんと言える気がした。
でも私は梓のいる病室の窓を見上げただけで何も言わなかった。
今度、梓が元気になって戻ってきたとき。
梓のために歌おう。
言葉ではまた臆病風に吹かれて上手く言えないかも知れないけど。
歌ならきっと、上手く伝えられるから。

私たちはずっと仲間だよと。

車のクラクションが鳴った。
見た事ある車が病院の駐車場に止まっている。
唯が「さわちゃん先生!」と駆け出していった。私も唯に負けじとさわちゃんの車に向かって走り出す。

「おい、律、唯!」

「そんなに走ると滑っちゃうよ!」

澪とムギの忠告もむなしく、私はさわちゃんの車のすぐ手前で勢い良く滑ってしまった。
一足早くさわちゃんの車についた唯が笑っている。
ムギと澪が慌てて駆け寄ってくる。
私は尻餅をついたまま、雪の上に仰向けに寝転がった。
さわちゃんが車から顔を出して「汚いわよー」と言っているのが聞こえた。

空には五つの星が寄り添うように輝いていた。

終わり



最終更新:2010年12月24日 00:12