――――― ――

翌朝、珍しく澪が私の家の前に立っていた。寒そうに手を擦り合わせながら。
昨日の雪は、夜中も休むことなく振り続けていたのか、辺り一面銀世界。
その上に新しい雪が積もっていく。
私はおはようの代わりに、少し背伸びをして澪の頭に積もった雪を払ってやる。

「おはよ」

澪は目を細めながら言った。私は「ん」と大きい傘を開くと、澪と自分の上に
さした。
昨日の梓とは反対で、私のほうが背が低いので腕が痛くなる。
澪もそれを知っているので、二人で傘に入るときは必ず澪が傘を持つ暗黙の了解が
あったりする。
大きい傘なら尚更。
それが私たちの関係と同じ気がしていたから澪には悪いし変な言い方だけど、
気に入っていた。

澪のさす傘の下を歩いていると安心した。
私は、澪に支えられてる。
澪がいたから軽音部もここまで続けてこられた。たぶん私は、澪を守ってるんじゃなくって
澪に守られているんだと思う。それが私たちの関係。

澪は一瞬珍しそうな顔をして私の持つ傘を掴むと、片手で濡れた髪に触れた。
どちらともなく歩き出す。
沈黙が続く。
昨日の梓の顔が頭にちらつき、声が過り、私は我慢しきれなくなって口を開いた。

「何で傘持って来てないんだよ?」

「律を待ってる間に降ってきたんだよ。家を出たときは降ってなかった」

「折りたたみくらい持って来いよなあ、昨日からずっと止みそうになかったんだし、
天気予報でも言ってただろ」

「忘れてた」

澪は俯き加減にそう答えた。
澪らしくない返答。朝、私の家の前で待っている事だって、小学校以来ほとんどない。
あるとしたら何かあったとき――私はそこまで思ってハッとした。
何で気付かなかったんだろうか。澪はきっと何か言いたくて私を待っていた。
なのに私は。

「澪、あのさ。どうかしたのか?」

私は澪の顔を覗きこむようにして訊ねた。
すると、澪は苛立ったような声で言った。

「こっちの台詞だ、バカ」

「え……?」

「昨日ムギが電話してきて、律の様子も梓の様子もおかしかったから何かあったのかもって」

澪がさっきから何も言わなかったのは、私から何か言うのを待っていたからなのか、
それとも恥ずかしがり屋な澪だから、自分から訊ねられなかっただけ。
澪が自分が何かあったんじゃなく、私や梓のことを心配して来てくれたらしい。
やっぱり澪は、私にとっての大きい傘みたいな存在だと思った。
何でも受け入れてくれるし受け止めてくれる。
だから私は、梓の言葉を澪にぶつけた。梓が言ったことはもしかして、私自身の
言葉だったのかも知れない。

「私たちが卒業しても軽音部は無くならないよな?」

真っ白な雪を踏みしめながら、私は言った。
澪が困惑したように立ち止まる。
私の頭が少し、傘の外に出てしまう。
出っぱなしの額が、冷たい風に吹かれて痛い。

「当たり前だろ」

澪は少し迷うような素振を見せた後、はっきりとそう答えた。
澪だってきっと、この言葉の意味はわかっているはずだ。
それでも澪は当たり前だと言い切った。誰よりも現実を見据えてるはずの澪が。
もしかしたらただの願望なのかも知れない。だけど澪は頷いた。
私はなぜか、酷く自分に対して嫌悪感を感じた。
遠くの方で、チャイムが聞こえた。
私たちは顔を見合わせると、走り出した。

――――― ――

「りっちゃんりっちゃん!」

何とか遅刻を免れ、一時間目の授業をクリアすると、唯が私に走り寄ってきた。
その手にはノートが握られている。

「歌詞考えてきたんだけどね」

「歌詞?あ……」

「忘れてたでしょ?」

唯の言葉に小さく頷く。
昨日帰ってからすぐに寝てしまったから、歌詞なんて全く考えてない。
梓に贈るための歌。

「で、唯は考えてきたのか?」

「えへへ、ちょっとだけだけどね!」

「どれどれ、私が見てやろう」

「うん、“卒業”をコンセプトに考えてみました!」

「唯がコンセプトだと!?……ていうかサビは?」

「サビの前で躓きましたっ」

得意げに言うことじゃないだろ、と思いながら私は唯の字を読み進める。
けど“卒業”を意識したらしいその歌詞は、今の私には辛すぎた。
流し読みしただけでノートを閉じて唯に返す。
唯はどうだったとは聞かず、別のことをたずねてきた。
たぶん唯が私に話しかけてきた本当の理由は、歌詞を見せるためじゃなくって、
私に訊くためだったんだろう。

「あずにゃん、昨日泣いてた?」

「……なんで?」

「あのね、あずにゃん、最近よく寂しそうな顔、してたでしょ?」

私は頷いた。唯だって、もちろん澪やムギだって、梓のことは気付いていたはずだ。
だから昨日、突然梓のために何かしたいと言ってもなんでかは訊かなかったんだろう。

「だけど学園祭の時だって、あずにゃん、一度も泣いてない。泣くのを我慢してるみたい。
見てて私まで苦しくなってきちゃうくらい」

そういえばそうだった。
学園祭の時だって、梓は一度も涙を流してない。昨日だって、今にも泣きそうなくせして
泣かなかった。

「だから昨日あずにゃんが帰って来なかったのって、泣きたかったからなのかなって、
そう考えたんだけど」

「梓、昨日も泣かなかった」

私は答えた。唯はそっか、と言って俯いた。
もしかすると、梓が昨日神社にいた理由は、唯の言う通りなのかも知れない。
でも、梓が私たちの前で泣かない理由は、わからなかった。

昨日よりも一層冷えたように感じる部室に、梓はいた。
唯と澪は呼び出し、ムギは掃除当番でいない。
トンちゃんに餌をやる梓の横顔は、光の加減でよく見えなかった。
私は声を掛けずに部屋の置くまで進むと、鞄をソファーに置く。
なんと言えばいいのかわからなかった。
梓は私が鞄を置いた音で、やっと誰かが来たことに気付いたのか、トンちゃんから
私に視線を移した。

「あ、律先輩」

「……ん、最近来るの早いな」

私は梓から視線を逸らすと、梓の横にあった椅子を引いて座った。
いつも梓が座っているその椅子は、少し低かった。

梓が入ってきた頃、唯と二人で私たちより小さい梓のために椅子を低くしたのを
思い出す。
梓のため、というのは私たちのただのイタズラに対する言い訳なのだが。
梓は今でも、自分の椅子が低くなった琴似気付いていない。

梓は再びトンちゃんのほうを見ると、「律先輩」と私の名前を呼んだ。
私も前を向いたまま、聞き返す。

「なに?」

「……なんでもないです」

「梓」

「なんですか?」

「……やっぱなんでもない」

そんな会話を繰り返す。
お互い大事なことは何も言わない。言わないというより言えなかった。
昨日のこと、何も答えなくてごめん、と。
軽音部が無くなるわけないだろ、と。
そう言えたら良いのに。
喉まで出掛かっているのに、声が出てくれない。

まだ自分の中で整理がついていない。
卒業後のことを考えただけで不安になる。
だからよけいに、こんな地に足のついてない私には梓を安心させる権利すら
ないような気がする。

「お茶、淹れましょうか」

「あ、頼むわ」

やがて梓は、トンちゃんの前から立ち上がり言った。
入部したての頃は、「お茶なんて飲んでないで練習しましょう!」なんて怒っていたくせに
今ではすっかりそれに馴染んでいる。
また、私たちの間に沈黙がおりた。
梓がお茶を淹れる音と、私が暇潰しにスティックで机を叩く音しか聞こえない。
以前は、梓がギターを弾く音と、私が梓をからかう声が響いていたのに。

随分と変わったなと思った。
梓だけじゃなく、多分私も。随分と変わってしまった。

「律先輩」

「……ん?」

梓はお茶の入ったカップを私の前に置きながらまた、私の名前を呼んだ。
顔を上げると、いつも私が座っている椅子に腰掛け、私を真剣な顔で見ている梓と
目が合った。私はつい視線を逸らすと、「ばれちゃったのか?」とふざけてしまった。
梓は「何がです」とは訊かずに、「前から知ってましたよ」と苦笑した。

「椅子のこと、ですよね」

「あぁ、うん」

「ずっと気付かないわけないじゃないですか。唯先輩か律先輩じゃあるまいし」

「わ、私は気付くし!」

むっとしてプロレス技を掛けると、ぷっと梓は噴出した。
それから首に回した私の腕に触れながら、梓は呟くように言った。

「私、もうすぐ独りになっちゃうんですね」

それは多分独り言。
だから私は聞き返さなかった。何も聞かない振りをした。
澪みたいになりたいと思った。梓の寂しさや悲しさや、何もかも全部受け入れてやりたいと
思った。あの大きな傘のように。
だけどまた私は、何も言えなかった。
梓は独りじゃないと。


――――― ――

いくら頭を絞ったって、歌詞なんて何も浮かんでこない。
あの日から私はしばらく、受験の為に部室に行ってなかった。
滑り止めの受験を昨日終え、午後から学校に行く前に滞っていた作詞ノートを広げて
みたが、やっぱり何も浮かんでこない。

そういえば昨日の夜から携帯を開けていなかったことを思い出し、私は気分転換に携帯を
開いた。メールが二通、届いていた。一通は唯から、もう一通は梓からだった。
唯は「明日学校に行くよ」というものだった。
唯と私は同じ、澪とムギは別の大学で滑り止めの受験を受けていた。
携帯の時計を見ると、もう昼過ぎ。今から返信しても遅いだろう。
唯のメールを閉じ、梓のメールを開けた。「受験お疲れ様です!」とあった。
一斉送信じゃないところが梓らしい。

昨日、澪と学校に行っていたらしいムギから、「梓ちゃんが無理しているように見える」と
メールを貰った。
暗い顔はしていないけど、無理して笑ってたんだと澪の心配そうな声が蘇る。
ふと時計を見ると、そろそろ下級生の授業が終わる時間だった。
私は携帯を閉じると、重い身体を上げた。


――――― ――

校門の前で、ムギの後姿が見えた。
私は走り寄ろうとすると、ムギのすぐ手前で溶けかけた雪に滑ってかっこ悪く
転んでしまった。

「大丈夫!?」

「なんとか」

慌てて傍によってきたムギの手を借りて起き上がる。
激しくしりもちをついてしまったせいで痛いお尻を擦りながら、滑ったとき放り投げて
しまった鞄を拾い上げる。雪のせいで少し濡れていた。
雪を払い、再び鞄を肩に掛ける。そして何食わぬ顔をしてムギに向き直った。

「ムギも今来たとこ?」

「えぇ、午前中は家で少しゴタゴタがあったから」

「大変だな、ムギも」

二人並んで校門をくぐる。
今日最後の授業が終わり、部活をしようと運動場に出て行く生徒がちらほら見え始める。
梓もきっと、寒々しい部室にいるのだろう。
そう思うと、なぜか早足になるのではなく、足が重くなってしまった。
梓に合いたくないわけじゃ無いし、部室に行きたくないわけでもない。
ただ、あの広い部室に一人でいる梓を見るのが怖いと思った。
私たちの軽音部がもうすぐばらばらになってしまう、そんな感覚に陥りそうで。

慣れない受験勉強と最近の頭痛がするほどの悩みのせいなんだろう。
だからそんなふうに思うのかも知れない。
怖がり、弱虫、へたれ。そんな風に自分を貶めても足は鉛のように重いまま。
それでも私は靴を履き替え、何も言わずに部室の方向へ歩いていく。
しかし、職員室の前まで来た時、とうとう私の足は止まってしまった。

「りっちゃん?」

「あ、えーっと」

自分の中でコロガル色々な気持ちを整理するための――否、逃げるための言い訳を
必死で考える、そんな自分が情けなくなる。

「ほら、私一応第三志望まで合格したし言いに行こうかなって、さわちゃんに!」

一昨日、一応受けておいた短大から合格通知が届いていたことを思い出す。
本当は昨日受けた第二志望、そして皆一緒の第一志望の合格発表を終えてから、
唯たちと一緒に報告しに来ようと思っていたが、今私が職員室に寄る理由なんてそれくらいしか
思いつかなかった。
ムギは特に何も疑問に思わなかったのか、「わかった」と頷く。

「先部室に行っててくれていいし」

「ううん、待っとくね」

ムギは私の言葉に首を振ると、そう言って微笑んだ。
それを見て、罪悪感や何かで胸が押しつぶされそうになる。
私は「ありがとな」と言って職員室のドアを開けた。

「あら、りっちゃん」

ドアを開けて中に入るとすぐに、だらけるさわちゃんの姿が目に入った。
三年生が自由登校とはいえ、受験のこの時期、仕事が多いのか職員室にある
教師の姿は多い。
さわちゃんの机の上にも山積みの書類の束が置かれている。
さわちゃんは私を見つけると、いらっしゃいと言う様に手を振った。
私が近くまで行くと、机に突っ伏していた身体をしゃんと伸ばした。

「一人で職員室に来るなんて珍しいわね。いつもは必ず澪ちゃんとか、誰かを従えてるのに」

「いや、従えてるってさわちゃん……。今はムギが外で待ってる」

「ムギちゃんなら着いて入ってきてもおかしくないのに」

「さわちゃん、ムギをどんなふうに見てんだよ……」

「とっても良い子よ、りっちゃんよりも数倍ね」

「ひどっ」

本当のことじゃないの、とさわちゃんは笑いながら机に頬杖をつくと、
「それで?」と話を変えた。
私が職員室に来た理由を訊ねているんだろう。

「あ、一応第三志望までは受かったって言いに来た」

「そう、良かったわ。りっちゃん第三志望までは合格、ね」

さわちゃんは私の言葉を繰り返しながら、ファイルを広げてそれを書き込む。
それから緩慢な動きで私に向き直ると、「第一志望受かってなかったらここで進学で良かったのよね?」と
訊ねてきた。

「……うん」

「何深刻そうな顔してるのよ。自信ないとか試験できなかったとか今更くよくよ
後悔したって遅いでしょ?まありっちゃんはよく頑張ってたと思うし受かってると
思うんだけど」

違う。
受かってないかもとか、もっと勉強しておけばよかったとか、そんなんじゃない。
もし受かってなかったら私は一人違う大学に進むことになる。
そうしたら、私たちはどうなってしまうのか。ここ数日ずっと考えていたことがまた
頭に浮かんだ。

「さ、りっちゃん、部室行くんでしょ?」

「え?あぁ、うん」

「私もムギちゃんのお菓子貰いに行こうかしら」

さわちゃんはそう言って、ファイルをパタンと閉じた。
その時、何かの写真がポロリと私とさわちゃんの足元に落ちた。

「あ……!」

「何々?彼氏の写真?」

私はいつもの“明るい自分”に戻りたくて、さわちゃんをからかう種を
見つけたとさわちゃんが動く一瞬前にそれを拾い上げた。

「……これ」

表を向けると、その写真には、高校時代のさわちゃんと、組んでいたバンド仲間の
人たちが写っていた。
さわちゃんを弄る絶好の道具のはずなのに、私は何も言えなかった。
伸びてきたさわちゃんの手が写真を奪い返す。私はその写真を急いで隠そうとしている
さわちゃんに訊ねた。

「なあさわちゃん。さわちゃんが昔組んでたバンドの人たち、皆違う大学に行ったの?」

さわちゃんは、突然の私の問い掛けに首を傾げながらもそうよ、と頷いた。

「私たち全員、やりたいこと違ったから」

「嫌じゃなかった?怖くなかった?」

「怖いって何で?」

「だって、今まで見たいに話せなくなっちゃうじゃん!ずっと一緒にいられない、
もしかしたらそのままもう二度と会えなくなるかも知れないのに!」

考えたくも無い、そんなこと。
だけどそんなふうに考えてしまう。
梓の言葉がずっと頭に残っている。梓のほうが私なんかよりずっと寂しいはずなのに、
部長である私は自分のことで精一杯でたった一人の後輩を笑顔にすることさえ
出来ない自分が嫌になる。

「それは確かに思ったわよ。でもその頃はまだ高校生で、一応未来だって明るかったんだから、
なんだかんだずっと私たち全員一緒なんだろうなって。そんなふうに漠然と思ってたわ」

さわちゃんは、肩を竦めてそういうと、写真をファイルに戻した。
そのままファイルを引き出しに仕舞う。

「実際、私たち高校生のときみたいじゃないけど今でも親交あるし」

離れたくても離れられないものなのよ、とさわちゃんは言った。
そういうものなの、仲間って、と。

「りっちゃんたちも、きっとこれからも嫌になるくらいずーっと一緒よ。もちろん、
梓ちゃんだってね。離れたって今までの絆なんて消えるわけないんだもの」

そうだ、少し離れたぐらいで私たちが全員、心まで離れ離れになるわけがない。
わかってたのに。
私は自分自身のその言葉が信じられなかった。
だからずっと怖くて怖くて仕方なかった。

「私、いいこと言っちゃった?」

「今ので全部台無し」

キャハッと笑ってさわちゃんにそう言うと、
さわちゃんは唇を尖らせながら立ち上がった。

「いいわよ別にーっ。あとりっちゃん」

「なに?」

部室に行くんだろう、足を弾ませながら職員室の扉を開けたさわちゃんは、
私を振り向いた。

「もう少し、軽く考えなさいよね」

「……うん」


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