季節は気付かないうちに移り変わっていくものなのだと、最近私は知った。
本当に知らない間に、もう一年の半分は過ぎている。思えば高校の三年間、
長いようで短かった。よく言われていることだが、まさにそのとおりだと実感するくらい。
ついこの間高校に入学したと思ったら、もうあとものの数ヶ月で卒業。
笑ってしまう。

「な、梓?」

私は前にいた梓に、何となくそう声を掛けた。
今私が巡らせていた考えが梓に伝わっているはずもなく、案の定梓は怪訝そうな顔をして
私を見た。

「何がですか?」

「ううん、なんでもない」

「なら早く、他の先輩方が来るまで勉強しててください」

へーいと軽い返事をして、私は再び目の前に広げたノートと向き合う。
梓は頬杖をつきながら、私のノートを呆と見ていた。

梓と部室で二人きりになることは珍しくない。
寧ろ、他の誰よりも多いんじゃないかと思う。掃除当番や呼び出しを無視して
部室に来てるからなんだろうけど。

いつだったか、梓に聞かれたことがある。
「どうして律先輩はいつも一番に部室に来てるんですか」と。
私は答えた。「部長だから」と。
ただ単に、掃除当番をサボりたいから、なんて言って後輩に示しがつかないのが嫌で
咄嗟に口をついて出たことなのだが、後になって、本当にそうなのかも、と思うようになった。

「梓ぁ」

「また何でもないって言ったら怒りますよ」

「うぅ……」

最近、梓が随分と冷たくなったように感じる。
これまでも、梓の私への態度が他の人と違っていた気がするが、梓が力を抜いて
接してくれるのは私だけだと知っていたからそれでよかった。

しかし、今の梓は肩の力を抜くどころか、この時期になってもっと重いものを
背負っているように見える。
冷たい、というより何かを考え込んでいるようだった。
けど何より私を心配させたのは、私と二人だけのときは特に、暗い顔をしている
ことだった。

こうして滑り止めの受験勉強をしている今も。
理由がわからないほど私は鈍感じゃない。
ただ、気の利いたことを言ってやれたり、何かしてやれるほど器用でもなく。

だから今日も私は、睨むようにして私の真っ白なノートを見ている梓の前に、
何もわからないふりをして座っているしかない。

不安なんだと思う。
自分が一人、軽音部に残されることが。
寂しいんだと思う。
私たちが卒業してしまうから。
だけど、それがわかっているからと言って、無力な私が何か出来るわけでもないから。

「今日も寒いな……」

「そうですね」

部室にいても、白い吐息が漏れるくらい、この部屋は冷えている。
まるで梓みたいだな、と冗談半分に思いながら梓のほうを見ると、同じようにして
私を見ていた梓と目が合った。
暫くそのまま見詰め合った後、慌てたように視線を逸らされた。

「先輩……」

「なに」

「やっぱ……何でもないです」

なんだよ、と私は笑った。
梓も今日初めての笑顔を見せてくれた。
その後、梓はまた何か言いたそうにしていたが、結局何も言わなかった。
だから私も何も聞かなかった。

――――― ――

「あずにゃんのために何かしてあげられること?」

「うん、卒業前にさ、軽音部として何か梓に残してやりたいなと思って」

私は何となく、皆にぼやいていた。
珍しく梓のいない帰り道。
「用事があるので先に帰ります」と頭を下げていった小さな後姿を思い出す。
唯は私の言葉にほわっと首を傾げた。
隣を歩いていた澪が、確かになあと頷く。

「私たち、今まで何も先輩らしいことしたことなかったし」

「そうねえ」

ムギもそう言って頷くと、唐突に何かの曲を口ずさみ始めた。
私たちがきょとんと立ち止まると、ムギは「ごめんなさい」と苦笑した。

「曲が思い浮かんだから」

「曲?」

「えぇ、新しい曲だけど……澪ちゃんも何か詞が浮かんだの?」

「ううん、詞じゃないんだけど……」

ムギの質問に、澪は首を振りながら私を見た。
唯も「あぁ!」と声を上げた。

「りっちゃん、軽音部らしいことであずにゃんに出来ることって言ったら、歌うことだよ!」

「そう、梓のために、新しい曲を秘密で作るのはどうだ?」

――――― ――

その日の夜。
私は机の前で、まっさらなノートを広げたまま頭を抱えていた。
さっきから一向にペンは動いていない。
あの後、それぞれ詞を考えてこようという流れになり、それを実践するべくかれこれ一時間、
ずっとこうしているわけだが、全くと言っていいほど何も浮かんでこなかった。

「よく澪の奴、あんなに歌詞思いつくよなあ……」

ふう、と大きく息を吐くと、私は前髪をかきあげて呟いた。
前にも歌詞を考えることがあったけど、今更ながらその時ちゃんと考えておけば良かったと
後悔した。
その時考えておけば、少なくともアイディアは何か浮かんできただろうに。
(澪なんてネタ張なんてものがあるらしい)
それに勉強もしなきゃという焦燥感が、よけいに私の普段素晴らしいアイディアばかりが
浮かぶ頭の動きを鈍らせていた。

気分を変えるため何か飲もうと思って、部屋に流していた音楽を消すために立ち上がると、
カーテンの隙間から細い糸のようなものが一瞬見えて消えていった。
音楽を消してみると、案の定雨の音がした。

「傘、学校に置きっぱだったよな……」

学校の下駄箱か、ロッカーに入れたままであろう折りたたみ傘。
この音じゃひどい雨なんだろう。明日の朝までに止む気配がない。

私は基本、大きな傘は使わない主義だった。
誰かの傘に入れてもらうのはいいけど、自分が持つとなると別だった。
大きな傘は私にとってはとてつもなく重く感じられる。
大きければその分、雨をはじく範囲が広くなる。私の心は広くない。
受け止められる事だってきっと少ない。
大きな傘が沢山の雨をはじくみたいに、自分は沢山のことを受け入れられない。
そんな思いが心のどこかであるからなのだと思う。

こんなことを考えていると、私も随分と詩人なんだなと笑いたくなる。
澪のことを笑ってられないくらい。

明日は大きい傘で登校か、と再びカーテンの隙間から外を覗いたとき、
突然机の上にあった携帯が震えた。唯からの着信だった。
携帯を開けると、電話に出る。

「唯ー?」

『りっちゃん!?』

心なしか、唯の声は少し……いや、かなり焦っているようだった。
いつものどうでもいいようなことだろうと思っていた私は、少しだけ顔を引き締めると、
どうした?と訊ねた。

『あずにゃんがね!』

「梓がどうした?」

『あずにゃんがまだ家に帰ってないって……!』

――――― ――

雪に変わりかけのべたべたした雨の中、私は走っていた。
父親の地味な色の大きい傘を差して。

唯の声が蘇る。

『今さっき、歌詞書くのに煮詰まったからあずにゃんの声でも聞こうと思って
携帯に電話かけたら出なくって。それで家に掛けたらね、お母さんが出てまだ帰ってないって……!』

家を出たのは九時過ぎだから、今はもう半は過ぎているはずだ。
梓の家族も、普段真面目な梓が遅くまで帰ってこないため酷く気が動転していたらしい。
何度も唯に梓の居場所を尋ね、しまいには警察に連絡しようとまでしていたのを、
唯(というか同じく気が動転していた唯を助ける為話を聞いた憂ちゃん)が止めたそうだ。

「ったく、どこ行ったんだよ……」

走りながら何度もコールするが、全く電話に出る気配がない。
出ないんなら留守電にしとけよな、とかどうでもいいようなことに憤慨しながら
私は梓の姿を求め走り続けた。

自分でもなんでこんなに必死なんだろうと思う。
これが澪やムギ(……は違う意味で心配かも知れない)なら、華の女子高生なんだから
たまにこんなこともしたくなるだろ、なんて思ってここまで心臓をバクバクさせながら
走ることもなかったはずだ。

たぶん、梓だから。
梓の、暗い表情を見てしまったから、なのかも知れない。

しかし、一向に梓は見付からない。
私は走ったせいで濡れてしまった髪や顔から滴る水滴を拭いながら立ち止まる。
もう雨は、すっかり雪に変わっていた。
このままこの辺りを宛てもなく走ったって見付かるはずが無いと気付き、私は梓の
行きそうな場所を考えてみた。
そして、行きそうな場所ではないが、いつもと違う行動をしていたのを思い出す。

そういえば今日の帰り、梓は突然先に帰ると言い出した。
普段なら部室に入ってきたらすぐに誰かに律儀に伝えるのに。
ということは急に思い立ったということか。ますます私は途方に暮れてしまった。

その時、携帯が鳴った。
梓からかと思って悴んだ手で慌てて携帯を開けると、梓ではなく澪からだった。

『律、今どこ?唯から聞いたんだけど……』

「商店街の前らへん。まったく見付かんない……」

『ムギも探してるらしいけど……律、私も今から』

「澪、梓の行きそうな場所、わかる?」

『え?っと……』

私は澪の言葉を遮って、ダメ元で訊ねてみた。
すると澪は、少し不安そうな声で『……神社』と呟いた。

「神社?」

『ほら、商店街の突き当たりに小さい神社、あるだろ?あそこ、野良猫とか結構いて。
前に梓がそこにいるのを見かけたんだ。中に入れなくて声掛けられなかったんだけど……』

「幽霊さんが出るから?」

『お、思い出させるな!』

澪の大きな声に笑いながら、私はありがと、と礼を言って電話を切った。
最後に「すぐ帰るから怖がりな澪しゃんは来なくていいぞ」と付け足して。

私にはまだまだ知らないことが沢山ある。
梓のことを少しでも知ってると思っていた自分を呪いたくなった。
私は携帯をコートのポケットに戻すと、悴んだ手にふっと息を吹きかけて澪に
教えられた神社へと走り出した。

――――― ――

「梓」

賽銭箱の前にしゃがみ込み猫に触れていた後輩の上に傘をさしかける。
梓は大袈裟だと思うくらいにびくっと身体を震わせ私を見た。

「律先輩……」

「何してんだよ、こんな時間まで」

「先輩こそ」

「私は梓を探してたの。梓のお母さんとか、凄い心配してたらしいぞ?」

「すいません……」

梓は申し訳なさそうに謝って立ち上がる。
私は傘を持っていた手を入れ替えた。

「ほんとはすぐに帰るつもりだったんですけど、急に雨降って来ちゃったから
雨宿りしてたんです。それで雪になったし今から帰ろうかなって」

「そっか」

頷くと、また傘を持つ手を変える。
そろそろ手が限界だった。感覚なんてほとんどない。
梓はそれに気付いたのか、「傘、持ちましょうか」と手を出してきた。
「いいよ」と手を引く前に、梓の手が傘の柄を掴んでいた。

「冷たっ」

二人同時に、驚いてそう声を発してしまった。
傘を掴んだ梓の手が、同じく傘を掴んでいた私の手に微かに触れていた。
その触れた手があまりにも冷たくて、私は呆れてしまう。
しかし自分の手も同じようなものらしく、すぐに変な感じに温かく感じた。

「律先輩、凄い冷たいですよ?」

「梓こそ」

傘を持つ手をそっとずらして、梓の手にちゃんと自分の手を重ねてみる。
もう冷たさは感じなくなっていた。
氷のように詰めたい梓の手で、感覚がすっかり麻痺してしまったのかも知れない。

「……先輩、何でさっき、何も聞かなかったんですか」

梓は、私が重ねた手にもう一方の手も重ねると、言った。
私はおどけながら「聞いて欲しかったのか?」と訊ね返す。

「先輩なら絶対に問い詰めてくると思ってました」

「ひどっ」

「……だって、部長ってそういうものだと思ってましたから」

意味がよく理解できなくて、私は曖昧に「そっか」と濁した。
梓は私をちらりと見やると、「帰りましょうか」と言って神社の出口に目を向けた。

「傘、私が持ちますし」

「いいよ」

首を振る。
後輩に対する意地だとかそんなこともあるけど、何より今の梓を見て、私は初めてこの
大きな傘を誰かのためにさしたくなった。
誰かのことを、ちゃんと受け止めたいと思った。
梓は迷うように私と傘を見比べると、私の手の下にある自分の手を抜き取った。
よし、と梓を傘に入れながら歩き出そうとすると、梓は立ち止まったまま、「律先輩」と
私の名前を呼んだ。

「なに?」

私は振り返った。
同じ傘の下だから、暗くてもよくわかる。
梓の瞳は、ゆらゆらと濡れていた。

「梓……?」

「一つだけ、聞いていいですか?」

「……うん」

頷くと、梓は言った。
私は、何も答えられなかった。

――――― ――

『先輩たちが卒業しても、軽音部は無くなりませんか?』

わかってる。
梓が『新しい部員がいないから廃部するんじゃないのか』とかそういう意味のことを
言っていたわけじゃ無いと。
だからこそ、私は答えられなかった。
未来のことなんてわからないし、澪たち四人で同じ大学を受けたものの、同じところに
行けるとは限らない。
仮に同じ大学に行けたとしても、いつかは離れ離れになってしまう。

きっと唯なら、「当たり前だよ、あずにゃん」なんて言って、梓を笑顔にしていたんだと
思う。それがたとえ気休めだとしても。
私は頭の中で、適当なことを言って梓をよけいに不安にさせたらどうしようとか色々考えて
しまい、梓の顔を少しでも明るくすることが出来なかった。

「部長失格じゃん、私……」

温かいシャワーが、私の冷え切った身体を温めていく。
なのに、いつまで経っても心は温まらなかった。

梓の寂しさや不安全部を受け止めたいと思ったはずなのに、私は出来なかった。
大きな傘が、もっと嫌いになった。

あの後、半ば強引に歩き出し、辺りを車で巡回していたムギに拾われ、梓を家まで
送り届けた。梓はムギの顔を見て、さらに瞳を潤ませていたのに、結局最後まで
泣かなかった。
梓がずっと神社なんかにいた理由も、聞けずにいた。

 部屋に戻ると、暗い部屋で携帯が青白く光っていた。
梓を心配した唯や澪からメールが届いていた。
そういえばまだ梓が無事に帰ったことを伝えていない。
けどそれを伝える気にならなくて、私は携帯を閉じた。
それにムギがちゃんと唯たちにメールしただろう。

ムギの車を降りた時、ムギは私に何も聞かずに、ただ黙って笑いかけてくれた。
それだけで心を落ち着かせたり、安心させたり出来るムギは凄いと思う。
私は梓に、何も言えなかったし安心させるように笑いかけてやることも出来なかった。
自分自身が、もうすぐ訪れる『別れ』を思い描いて固まってしまった。

明日はちゃんと、笑えるだろうか。
ちゃんと梓と、皆と話せるだろうか。
私はベッドに寝転がりながら、再び震えた携帯を開けた。唯からのメール。
私はそれも開けずに携帯を閉じると、重い目蓋も一緒に閉じた。


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