おくれてきたものの続編です】

確か、こういうおもちゃ、あったよね。
樽の中に人形が入ってて――実際は上に挿してある、というほうが正しいんだけど――、樽に開いた穴に交代でナイフを挿していって、当りを引いて人形が飛び出すと負け、っていうの。
それがどんな名前だったのかは忘れちゃったんだけどね。
小さいころの私は、人形が樽から飛び出すのが面白くて、当らないかなーって思いながらナイフを挿していたの覚えている。
どうして人形が樽から飛び出すのかなんて、ぜんぜん考えてなかったのも覚えている。
でも、今ならわかるよ。当たり前のことだけど、ナイフを刺されて痛いから飛び出すんだよ。その痛みから逃げようとして、ね。
今の私なら、それがよくわかる。だって、今の私が丁度その人形なんだもん。次々刺さるナイフにおびえながら過ごすってこんな心境なんだって、今は小さいころ遊んでいたその人形に謝りたい気分。
だけどね、きっと私のほうがつらいかもなーなんて思ったりもするかな。小さいころのそれと今の私じゃ違うところが二つあるから。
一つ、どんなに痛くたって私は飛び出すことができない。――どんなに痛くても、逃げることができない。
二つ、樽に開いた穴は外れというものが存在しない。――痛くないものなんて、一つもない。
まあね、いくら刺されても死ぬことはないんだけどさ。
ただひたすらに痛くて、辛くて、苦しくて、切なくて――それを、延々と繰り返しているだけ。
それが、ここ最近の私だった。

助けて、なんて言えない。
言うつもりもないし、もしそれに資格が必要なのだとしたら、私にはそれはきっと無いだろうから。
だって、誰のせいでもないもん。もしそれを無理やりにでも誰かのってことにしようとしたら、それはきっと私ということになっちゃう。
そう、悪いのは全部、私。
遅かった、そう、きっと私は遅かったんだ。
何が、って言われればきっと全てが。
私はのんびりしてて、ぽやーっとしてて、ずっと周りに言われてて自分でもそれは気が付いていたことだけど、だけどそれでもいいやって思ってた。
それが私だよ、なんて半ば開き直ったりしながら無邪気に日々を過ごしていた。
気付いてってどこかで叫んでいた何かにずっと気が付かないまま――それが聞こえていることにも、気が付かないまま。ひょっとしたら、気づかないようにしようとしながら。
だから、悪いのは全部私なんだ。私がそんなんだったから、きっと今の私がある。
ねえ、だってさ。もう少し早く気付いていたら、違ったのかもしれないんだよ。
そうしていれば、私の手はあの子に届いていたのかもしれない。
その隣にいられたのかもしれない。
ぎゅっと胸に抱きしめられていたのかもしれない。
だけど、私は遅かった。本当にもう、泣いてしまいたくなるほどに。いくら泣いてもその距離が縮まることは無いってわかってはいるけど、それでも。
つまりは、その声がようやく私の鼓膜を揺らしたときには。私がようやくそれに気付いたときには。
それはもう――私が望んでいたものは全部、この手の届かないところに行ってしまっていた。

私の視線の先には、本当に楽しそうに笑う二人。
いっそ見なければいい、なんて思うけど。そういうわけにも行かないよね。
だってあからさまにそうしてしまえば、きっとその子は、二人は、そしてみんなは変に思っちゃうから。
だから、楽しそうに笑う二人に、私は不自然ではない位に眺めたり目を離したりを繰り返してる。
「先輩、やっぱりすごいです」
「そ、そうか?」
きらきらとその瞳を輝かせながら、私には一度も見せたことの無い笑顔を浮かべながら、彼女を見上げるあの子。
彼女は少し照れくさそうにしながら、優しい笑みをあの子に落としている。
いろんなものを抜きにしてしまえば、ううんきっとそれを合わせてみても、お似合いの二人。
そう、きっと私といるときよりもずっと、あの子はいい顔を見せているから。
「じゃあ、もう一回合わせてみるか」
「はい!」
奏で合い、響きあう音は心地よく私の耳に響いてくる。
ぴったりと息の合った、綺麗な音。それをどんなに否定しようとしても、私の耳はそれを的確に評価してしまってる。
あの二人だから奏でられる音なんだって。
小さく苦笑する。そもそも否定だなんて、そんなことできるはずが無い。
だって。
彼女は大事な友達だし。
あの子は大切な――後輩だし。
その二人が仲良く、楽しそうにしていることに、私が言えることなんて何もない。本当に、何もないんだ。
だから、ただ耳を塞ぐ。勿論実際にそうするわけじゃないけど。
自分の爪弾く音、それに没頭するように、意識をそっちに閉じ込める。その殻に閉じこもってしまう。
そういえば最近ずっとこうやって過ごしてる。何も部活時間だけじゃない。家に帰っても、それを考えなくてすむように私はずっとギー太と向き合ってる。
そうしていれば、少しだけ本当にほんの少しだけそれを忘れられるから。少しだけ楽になれるから。
ありがとね、ギー太。そしてごめんね、こんな私につき合わせちゃって。駄目な私でごめんなさい。

「唯先輩っ♪」
謝りながらまたピックを振り下ろそうとして、そんな明るい声に右手を止められた。
何も聞こえないくらいに没頭していたけど。だけどその声を聞かされたら、止まらざるを得ない。その声で私の名前を呼ばれたら、顔を上げざるを得ないから。
だって、それは私の大好きな――あの子の声だから。
「わっ、どうしたの、あずにゃん。びっくりしたよ~」
声に合わせた表情を作りながら、私は反応を返す。
不自然じゃなかったかと少しびくびくしたけど、だけどその子はそのあたりには何も気が付いていないようで、内心ほっとする。
「すみません、折角集中してたところに。でも――」
――別に集中していたわけじゃないよ。ただ、逃げていただけだから。
「唯先輩、なんかすごく上達してませんか?」
「ふふーん、私もやるときはやるんだよっ。最近真面目に練習してるからね!」
ふんとちょっとおどけたように胸を張ってみせる。するとこの子は、私の予想通りに呆れたような笑みを私に返してくれた。
「もう、調子に乗らないでください。それが当たり前なんですから」
「えへへ、そうだっけ」
「そうですよ、もう」
苦笑して見せる私に、今度は優しく笑みを見せてくれる。それに、私はふわりと幸せな気持ちになる。
それは、そう。前と変わらない時間。私がそれと気付かず、ずっと当たり前にあるものだと、続くものだと思っていたもの。
そして、あの子と彼女の距離が変わった今でも、時々私に訪れてくれるもの。
いっそ、これが一切なくなってしまったら、ひょっとしたら私は楽になれるのかもしれない。
だけどあの子は、それでも昔と変わらない様子で、時々私の傍に来る。本当に、そこだけは昔と変わらない、そんな笑顔で。
きっと、あの子はそれを求めているんだと思う。それくらいの勘違いは、してもいいよね。
だから私は、どんなに胸が張り裂けそうでも、昔と変わらない笑顔であの子を迎えてあげる。
いつもの唯先輩だよーって顔をして、そんな仮面を貼り付けて、あの子と笑いあう。
だってそれはそれでも、私にとって何よりも幸せな瞬間だから。
だけど、そう。いってしまえばただそれだけのことなんだ。
それはただの瞬間で、それが過ぎてしまえばあっさりと無くなってしまう。

「おーい、梓。そろそろいいか?」
彼女の声が響く。すると、私に向けられていた笑顔は、ひょいっと本当にあっけなく、そちらに向いてしまう。
くるりとあのこの体が回って、その背中を私に向ける。
それはいつもの光景で、だけどいつになっても慣れない光景。
それはスパッと胸の辺りを切り裂いて、私はそこから溢れ出すたくさんのものを表に出さないようがんばらないといけない。
それはとても大変なことだけど――
「そうだ」
不意にくるっとあの子が振り返って、またその笑顔を私に向けた。
「唯先輩もどうですか?最近みんなで合わせるとき以外は、ずっと一人じゃないですか。澪先輩と一緒に、三人で合わせてみませんか?」
それは本当に不意打ちで、思わず顔が歪みそうになってしまう。だけど、ぐっと我慢。
「ごめんね~まだちょっと気になるところあるんだ。また今度でいい?」
「そうなんですか?私でよければ教えますけど」
「大丈夫だよ~一人で何とかできるし。ほら、あずにゃんは自分の練習ねっ」
「……そうですか。それじゃ、また今度やりましょう」
少しだけ残念そうな笑顔。それを私に残して、あの子は彼女の元へ駆け寄っていく。
その顔を向けられたことに、少しだけ嬉しくなって。そして私はまた向かい合って笑う二人に目を向けた。
二人は相変わらず、本当に楽しそうに笑いあってる。
それは本当に幸せそう。彼女の位置にもし私がいられたら、それはどんなにすばらしいことだと思ってはしまうけど。
だけど、それはきっと私には無理なことだったから。
だから、私はここで眺める。それだけでいい。
だって彼女の隣で笑うあの子は、本当に幸せそうに見えるから。だから、あの子は彼女の隣にいるべきなんだろう。
だから、私は望まないよ。ううん、望んでしまうのは仕方が無いけれど、それを絶対に表に出したりはしない。
私は唯先輩で、ただの先輩で、だらしなくてほんわりしてるあの子の先輩で、ただそれだけ。
そのままで私はいようと思う。あの子が望む、私の形のままでね。
それだけがきっと、私がそれでもあの子の傍にい続けるための方法だから。
そして、あの子がそれで幸せなら、たとえそれが私の隣じゃなかったとしても、やっぱり私はそれを幸せと思うべきだから。
そうだよね。それでいいんだよね。

でも、結局そのときの私は、その意味を完全にはわかっていなかったんだと思う。
私が望むその位置に、彼女がいるということが一体どういうことだということかを。
それを、その形を目にしてしまったときに、私はそれをはっきりと思い知らされることになった。


それは、いつもどおりの放課後。
音楽室へと向かう廊下の一角。天気のいいときは陽だまりがいくつもできる私のお気に入りの場所のひとつ。
その、本当にいつもどおりの廊下に、まるで映画のワンシーンのように、寄り添いあう二人がいた。
窓から差し込む光は、まるでスポットのように二人を照らしてて。
あの子は少し体勢を崩したように彼女に寄りかかってて、彼女は整った顔立ちにりりしい表情を浮かべてそれを支えていた。
私のほうからはあの子の表情までは見えないけど、きっとうっとりとした表情を浮かべているんだろう。
傍観者の私からでもこんなに絵になって見えるんだもん。当事者のあの子が、そうじゃないはずが無い。
きっと私には絶対に見せることの無い表情を浮かべて、彼女の腕の中にいるんだろう。

私が立ちすくんでいた時間は、本当は短いものだったと思う。
だけど、それはまるで、とてもとても長い時間のように思えていた。だってね、それはあまりにも――
痛い。痛すぎて、痛いということがわからない。まるで閃光のようなそれは、一瞬で私を埋め尽くしてしまって、何もかもを真っ白に変えてしまってた。
まるで幾億もの鋭い針に、細胞の一つ一つを貫かれているみたい。そこまですれば、ひょっとしたら今の私の状態を再現できるのかもしれない。
私は本当に、何もわかっていなかったんだ。
そうするようになってから、自覚していたつもりだった。
あの子が彼女の横で笑う時間が増えてから、そう自覚できていたはずだった。
あの子が彼女と帰宅を共にするようになって――だから私はそんなときは一人で帰ることを選ぶようになって――から、私はもうこれ以上ないほどに自覚できていたはずだったのに。

私は、あの子のことが好き。
自分で思っているよりもずっと、私は―平沢唯は、あの子の――中野梓のことが、大好きで。
あの子の傍にいたい。
あの子に触れていたい。
あの子を好きでいたい。
あの子に、好きでいてもらいたい。
あの子の、特別に、なりたかった。

――だけど、今あの子は――あずにゃんは私の隣にはいないんだ。
私が望んだ場所には私ではなく彼女がいて、あの子はそれで幸せでいられるんだ。
いつもそれを思い知らされていたはずなのに。
目の前の光景は、ただそれをより鮮明に、もうどうしようもないほどはっきりと私に示してくれただけなのに。
それでもあの子の傍にい続けるというのは、つまりそういう意味だったのに。

「……ぁ」
その感触で、私は我に帰返った。
つうっと私の頬を伝うもの。私の頬をぬらして、ぽたりと床に落ちる。
それは次から次へと私の目からあふれてきて、ふにゃりと私の視界を歪ませてた。
その先にある、いまだ寄り添う会う二人の姿まで。
――行かなきゃ。
私はくるりと踵を返して、物音を立てないようにだけどすばやくその場を後にする。
今のところあの二人は――少なくともこちらに背を向けているあの子は――私のことに気がついてないから。
あんなシーンに私が出くわした、なんてことを知ればきっと気を遣わせてしまうかもしれないから。
それじゃ、折角何も変わらない振りをしているのが、意味がなくなってしまうから。
私は何も変わらない、何も知らない唯先輩のままでいなくちゃいけないから。
そう思いながら、私の足はだんだんその速度を速める。
そして、最後は駆け出すようにしながら、その場から逃げ出していた。

本当に私は馬鹿だよね。そんなになりながらも、結局そんな心配をしてるなんて。
こんなになってもまだ、あの子の傍にいられる算段を続けてるなんて、ね。
きっと私はこうなっていても、ひょっとしたら――なんてそう思っていたのかもしれない。
ひょっとしたらいつかあの子が――なんて、そんなはずなかったのにね。
そんなはず無いってわかってても私は期待し続けていて、そして今それがはっきりと幻想だって突きつけられて。
あの二人の間に私が入れる隙間なんて欠片だって無いんだって、思い知らされて。
本当に今更。
今更のことのはずなのに、涙が止まらない。

「うわあっ!」
「ひゃっ……!」
半ば目を瞑りながら走っていた私は、廊下の角、そんな悲鳴に急ブレーキをかけさせられることになった。
危うくぶつかりそうになったその悲鳴の主、その手前で何とかぎりぎり立ち止まる。
「あっぶねーなぁ……そんな勢いで廊下走んなよ……って、唯?」
「りっちゃん……?」
聞きなれた声。ああ、そういえばさっきの悲鳴も確かにりっちゃんだった。軽音部の部長で、ドラム担当。いつも元気いっぱいの、私の仲間。
だから私は慌てた。そう気付いた瞬間に逃げるべきだった。ううん、駄目だ。それも不自然すぎる。いつもの私の行動じゃないから、きっと不審に思わせちゃう。
私たちはいつも一緒だから、五人セットの私たちだから、りっちゃんにそれが伝わってしまうとあの子にも伝わってしまうかもしれないのに。
どうしよう。でも、どうしようもない。顔を上げれば私が泣いている事に気付かれちゃうし、逃げ出しても駄目。ここでこうしてりっちゃんに会った時点で、もう手詰まりなんだ。
でも、何とかしないと――
「唯、おまえ……泣いてるのか」
先手を打たれて、私はびくっと顔を上げる。
「な、泣いてないよ!」
「嘘つけ。そんな顔で何言ってんだよ」
「あ……」
確かにそうだ。こうして向き合ってしまえば、私はどうしようもなく泣き顔のはずで、いくら取り繕おうとそれをごまかせるはずがない。
呆ける私の手を、りっちゃんはぎゅっと掴んだ。そのままぐいっと引っ張る。
「こっちこい」
そしてがらりと横にあった扉を開けると、そこに私を引き込む。
突然のその行動に、私は抗うことも、その隙もなく引かれるままにりっちゃんと一緒にそこに入る。
そこはどうやら空き教室のようで、放課後この時間ということもあって誰もいないようだった。
「り、りっちゃ…」
どうしてこんなところに、という私の言葉をさえぎるようにして、りっちゃんはぎゅっと私を抱きしめた。
「え?」
私はきょとんとさせられる。それは本当に、想像もしてなかったことで。だから私はどう反応すればいいかわからず、ただそうされるままにぽてりとその胸に頬を預けてしまう。
「泣いていいぞ」
そんな私に、そんな言葉が降ってきた。それもまた、予想外。
「理由は聞かない。どうせ言いたくないことだろ?」
「……うん」
小さく、頷いてみせる。ホントはもう、こんなところを見せた時点でもうアウトなんだけど、だけどそれでもはっきりとは言いたくない。
「だけどな、そんな唯を放って置けるほど私は冷たくはなれない。だから、胸を貸してやる」
「……りっちゃん」
ああ、そっか。これってそういうことだったんだ。
「泣き声を聞かれたくないんなら、私が全部抑えててやるからさ。だから、泣いていい。そんな顔してるときはな、泣くのが一番いいんだぞ」
だめだよりっちゃん。そんなに優しくされたら、私、本当に泣いちゃうから。
今も泣いちゃってるけど、だけど本当に泣いちゃう。
あのときからそれはしないようにって、ずっとそうせずにいられていたのに。
「……えぐっ……」
それでも我慢しようとしたのに、そんな私の頭を優しくなでてくれたりなんてするもんだから。
私は結局大声を上げて、子供みたいに泣き出していた。
同時にぎゅっとしてくれたおかげで、私の声は響かずにいてくれたようだけど。だけど、一度泣き出したらもうそんなこと気にもできなくなって、私はただひたすらに泣き続けていた。
そんな私を、りっちゃんはずっと、時々優しく頭をなでながら抱きしめてくれていた。

「ありがとう、りっちゃん、もう大丈夫だよ!」
「お、いつもの唯に戻ったな」
少しずつ小さくなっていった嗚咽がようやく収まって、私はりっちゃんの胸から顔を離すと、にこっと笑って見せた。
それを見たりっちゃんは、にまっと笑い返してくれたから、どうやら私はいつもの笑顔を取り戻せたみたい。
「うん!……ごめんね、迷惑かけちゃって」
「いいってことよ、私と唯の仲だろー」
「あはは、うん。ほんとにありがとね」
「おうー」
ぽんと胸を叩いて見せるりっちゃんに、私はいつもの調子で軽く、だけど心から感謝を送る。
あのままだときっと私はもうどうしようもなかったから。だけどりっちゃんがいたから、そんな私に優しくしてくれたから、私はまたいつもの私に戻ることができた。
「それじゃま、部活行こうぜ。また澪のやつが遅刻かーってうるさいからな」
「そだね……って、りっちゃんいかないの?」
その言葉どおりに私は教室を出て行こうとしたけど、なぜかりっちゃんは立ち止まったまま。私が行くのを見送るよって机に体を預けた姿勢で、こちらを眺めている。
そんな私の疑問に、りっちゃんは苦笑を浮かべながらくいっと親指で胸元を挿して見せた。
「ああ、お前が汚したこれ、何とかしてから行くよ」
「ああ!……そっか、ごめんね」
そういえば、さっき私が貸してもらったところは……うん、ちょっとべちょってしみになってる。
「だから気にすんなって、ほら、先行ってろよ。あ、澪には適当に言い訳しといてくれよな」
だけどりっちゃんはそれを気にしようとした私に明るく笑って見せたから。気にすんなって笑ってくれたから。
「うん、先に行ってるね」
こういう場合は、本当に気にしない振りをしたほうが、きっとりっちゃんは喜ぶ。
今度アイスでもおごって上げよう、それでお返しにしようって決めて、私は教室を出ようと扉に手をかけた。
「…なあ、唯」
そんな私の背中に、声がかかる。勿論それはりっちゃんの声で、だけど今までとはちょっと違った声色。
「ん?」
「いや、なんでもない。また後でな」
振り返ろうとした私に、その隙もなく声がかぶせられる。それはさっきまでの、いつものりっちゃんの声。
「うん、また後でね」
だから私は、結局振り返らないままその教室を後にした。

おそらくりっちゃんは気が付いているんだろうな。本当は今、それを確認しようとしたんだと思う。
普段は細かいことなんか気にしないぜなんてりっちゃんだけど、長い付き合いの中で実は結構繊細で敏感だってことを私は知っているから。
だからきっと、気付かれていたんだと思う。
それでも、りっちゃんはそれを聞かないでいてくれた。気付かない振りをしてくれた。
私の状況と私の望みを、りっちゃんはきっと知ってて、その上でそうしてくれたと思う。
それで、少しだけ私の心は軽くなった気がする。
いっぱい泣けたおかげ、というのも勿論あるよ。そこはりっちゃんの言うとおり。こういうときは泣くのが一番ってのは覚えておこうと思う。
だけど、それだけじゃない。
私のこの痛みを知ってるのは、私だけじゃない。そう思うだけで、こんなに楽になれるとは思わなかった。
りっちゃんは私の痛みを知ってる。そして、私を見守ってくれてる。それはなんだか、応援されているような気分だった。
勿論、楽になったってわけじゃない。棘はまだいっぱい私の胸に刺さっていて、その数はちっとも減る気配はない。
でも、元気は沸いてきた。うん、だから、私はまたがんばれそう。
うん、がんばるよ。
そうだよね。私があの子の特別じゃないなんて、もうずっとわかってたことだから。
ただその覚悟が足りてなかっただけ。
それでも、その傍にいたいと思ったのは私だもん。
それを何にも変えがたいものだと思っているのも、私だから。
そしてあの子もきっと、私にそれを望んでいるのだから。
だから、私はまだがんばるよ。がんばれる。
ありがとう、りっちゃん。私にその元気を分けてくれて。
本当に、ありがとう。

そして私は音楽室へ向かった。
いつものようにやっほーって挨拶して、遅れてきたりっちゃんも交えて、なぜかいつもよりにこにこの輝度の高いムギちゃんと、やはり一緒にいる二人と、その五人でいつもの時間を過ごす。
思ったよりもそれはずっとスムーズだった。
今日は澪ちゃんは来なかったから、あの子と二人きりの帰り道もうまくいった。
大丈夫、私はちゃんとそう振舞えている。
あの子の唯先輩でいられている。それが、ちょっと嬉しい。
辛いけど、嬉しい。
えへへ、それが強がりだってことはわかってはいるけど。それでもね。
私の望みは届かなくても、それでもやっぱり私の中にしっかりあるんだから。
だから、私はそれを抱えながら、その一番傍にはいけないけど、それでもあの子の傍で過ごして行こうって。
あの子がもう、それを望まなくなるまで。
そう、決めた。
今度はちゃんと、覚悟した上で決められた。


カレンダーはめくられていく。
そんな日々で、私はまた埋められていく。
二人を眺めて、時々あの子と一緒になって、そしてまた離れていくあの子を見送って。
私はにこにこと笑いながら、過ごしている。
痛みは積み重なっていくけど、想いも積み重なっていくけど、だけど私は笑ってる。
頑張れてる。もう泣いたりなんてしないよ。
だって、そんな必要は無いし。これが私の、当たり前の日々なんだから。
これを私は、幸せだとそう思うべきなんだから。
そう思っていた。

きっと、そう思ってしまっていた。

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最終更新:2010年02月07日 06:26