検証26:死者を連れていくものが見える王子
山岸凉子の厩戸は、「死」を、普通の人とは違う感覚で捉えている。
右上は父を連れていく疫神を見るシーン。
このシーンは「死」を言葉で説明するのではなく、連れていかれる父を絵で説明している。この後に「顔の表情を変えずに涙を流す王子の絵」が描かれており、言葉では一切語らない分、余韻が残るシーンである。
左上は、毛人が仏についていってしまいそうになるシーンである。
また右下は、物部との合戦の時に、人が沢山死んだために、仏も沢山現れるというシーンである。
『日出処の天子』では、死者は仏や神が連れていく考えがあるようで、それも王子にだけ見える。
右上は父を連れていく疫神を見るシーン。
このシーンは「死」を言葉で説明するのではなく、連れていかれる父を絵で説明している。この後に「顔の表情を変えずに涙を流す王子の絵」が描かれており、言葉では一切語らない分、余韻が残るシーンである。
左上は、毛人が仏についていってしまいそうになるシーンである。
また右下は、物部との合戦の時に、人が沢山死んだために、仏も沢山現れるというシーンである。
『日出処の天子』では、死者は仏や神が連れていく考えがあるようで、それも王子にだけ見える。
左下は池田版の竹田王子が死ぬシーンである。
言葉ではなく、「何かに連れていかれる」という絵によって「死」を説明している点が山岸版と同じである。
ページを大きく使い、抱えこまれるようにして手を添えられながら複数の仏に連れていかれる竹田王子を上の方に配置し、体は下に置いて、体と魂が分離していく様を描く、という構図も同じ。
その光景が王子にだけ見えるという設定も同じである。
言葉ではなく、「何かに連れていかれる」という絵によって「死」を説明している点が山岸版と同じである。
ページを大きく使い、抱えこまれるようにして手を添えられながら複数の仏に連れていかれる竹田王子を上の方に配置し、体は下に置いて、体と魂が分離していく様を描く、という構図も同じ。
その光景が王子にだけ見えるという設定も同じである。