幸せだった。
騙され続けていた頃は幸せだった。
騙されているという自覚がなかったから。
真実を知ることで考える葦になるよりも、騙され続けて晩夏のアスファルトでひっそりと佇む雑草のままでいたかった。

……騙されていたあの頃。
セミ達がヒステリックな断末魔の悲鳴を上げ、太陽が地上にいる者をいたぶって楽しんでいた9月の初め。

あの頃の唯は、学祭のライブが楽しみで毎日胸を高鳴らせていた。

クリスマスも正月も、ここまで唯の端正な顔に締まらない笑みを浮かべさせることはできなかっただろう。

夏休みの終わりの仄かな絶望感すら感じられなかった。

そしてそれは他のみんなも同じだったと思う。

お茶を飲んでだらけていても、何故か憎めないムードメーカーの律。

軽音楽部を引っ張る生真面目な澪。

お茶やお菓子を提供して部を影から支えてくれる紬。

可愛らしい後輩の梓。

……みんな笑っていた。みんな幸せに見えた。

「じゃ、今日はこれで解散っと」

空を藍色が支配する時間がいよいよ長くなり始めた頃。その日も唯達は学祭への特訓でいい汗をたっぷりと流してきた。

腕は疲弊してだらりと垂れていたし、肩は重労働に痛みで抗議していたが、胸は9月の残暑にそぐわない清々しさに満ち満ちていた。

「忘れ物ないかー?部室閉めるよー」

「忘れ物確かめるのはお前だ!今回は講堂使用許可証忘れてないだろうな?」

「大丈夫大丈夫~。念のため夏休み中に書いておいたんだから」

「極端な子」

帰り道。皆でたわいもない話で盛り上がる、無駄なようで大切な時間。

「じゃ、また明日ー」

「宿題忘れるなよー」

「家に帰ってからも練習続けてくださいね」

皆と別れるのが惜しい。律は梓の頭をクシャクシャと撫でていたし、紬は無邪気に手を降り続けていた。

唯は最後にもう一度手を振ると、儚い喪失感に胸をわずかに冷やしながら歩き始めた。このまま家に帰るのが惜しい。

ちょっと迷った末に、唯は国道沿いのアイスクリーム屋に行くことにする。

このまま家に帰る気にはなれなかった。だが別に妹が待つ家が嫌なわけではない。先ほどまで胸を高鳴らせていた幸福感にもう少し浸っていたいだけだ。

夕暮れの国道は車が多い。右へ左へと赤いテールライトが流れては消えてゆく。

運悪く、唯は赤信号にまともにぶつかってしまった。一度変わるとなかなか変わらない、悪名高い信号に。帽子を被った顔のない人物が、唯を嘲笑う。


信号はなかなか変わらない。当然のことだが、車は彼女を無視してどんどん国道という川に流されてゆく。

唯の中で、だんだんと鬱屈としたカーキ色の苛立ちが高まってきた。先ほどまで心を埋めていた清々しさや幸福感が台無しにされてしまった。

唯は機械があまり好きではない。踏み切りや駅の改札機など、人の行く手を阻む機械は特に。何だか機械に小馬鹿にされている気分がするのだ。

……小馬鹿にされる。そう考えると、唯の中で柄にもなく復讐への願望が高まる。相手のいない復讐。


車の流れが途切れるのを、唯はじっと待ち続ける。

唯の右手には大型の長距離輸送トラックが止まっている。ヘッドライトが、唯がこれからしようとしていることを咎める目に見えた。

……構うものか。唯はいつになく挑戦的な気分だった。どうせこのトラックも、ちょっとエンジンをかけただけで私の敵になるんだ。

車の流れが途切れた。唯は変わらない信号を無視して車道に飛び出す。

帽子の人物に仕返ししてやった気分だった。ちょっとしたアウトロー気取りだった。

……それが間違いだった。

トラックの死角になって気づかなかったのだが、実は別の大型トラックがすでに凄まじいスピードで接近していたのだ。


唯は綺麗にはね飛ばされた。



「……ちゃん、お姉ちゃん!」

……誰かが呼んでいる。唯は水の中に仰向けに横たわっていた。視界がゆらゆらと揺れている。

水の中なのに、何で息ができるんだろう。唯はぼんやりと靄がたちこめる頭で、答えのない疑問と共にいた。

「……ちゃん、お姉ちゃん!」

唯はふと、憂とプールに行った日のことを思い出す。あの日、プールから上がったあとに食べたアイス、おいしかったなあ。

……そういえば私、アイス食べたっけ?

「お姉ちゃん!!!」

「!!!」


唯は突然目を覚ました。それはまさに、長時間沈んでいた水から浮かび上がるような目覚めだった。

起き上がろうとして、肩から胸にかけて凄まじい激痛が走った。灼熱のナイフで体の内側から切られるような痛み。

涙の滲んだ目で、唯はあたりを見回す。何もかもが白かった。寝ているベッドも、床も壁もわけのわからない機械も。……また機械か。

「お姉ちゃん!お姉ちゃん!ああ、よかった、よかったぁ……うぅっ」

「いだだだだだだだ!!」


憂が抱きつかれ、唯はまたナイフで刻まれるような痛みに襲われた。涙がこぼれ落ちる。

「……あ、ごめんね。でも、でもよかったよおぉ……」

涙に滲んだ目で、唯はあたりを見回す。実にたくさんの人間が彼女を見守っていた。憂、和、軽音楽部の仲間達、両親。

……あれ、何でお父さんいるんだろ。仕事で当分留守にしてるはずなのに。

「憂、ここどこ?」

「……病院だよ。お姉ちゃん、トラックにはねられたんだよ」

唯はすべてを思い出した。

つまりはこうだ。彼女は変に粋がったおかげでしっぺ返しをくらい、こうして何時間も何時間も眠るハメになった。肩の痛みのおまけつきで。

幸いにも演奏に差し支えのない程度の怪我ですんだらしいが、素直に喜べなかった。むしろ申し訳なさで胃が泡立つような気分だった。

(よかった、無事だった。)

(ギター、助かった)

(心配させやがって)

(ライブに間に合うだろうか)

……みんなうるさいなあ。静かにしてほしいなあ。

唯はまだ靄の晴れきらない頭でぼんやりと考えたが、口には出さない。今は申し訳なさの方が強かった。


数日の後、唯はぎこちない足取りで退院した。ずっと横になっているうちに、体の使い方のコツを忘れてしまったらしい。

家に戻ってからすぐ、唯は真っ先にギターの安否を確認する。

「よかった……!無事だ!」

彼女の愛用のギターは全くの無傷だった。ギターケースにアスファルトに擦られた傷がついただけで。まさに奇跡的だった。

「よかったね、お姉ちゃん!」

(ギターなんかどうでもいいのに)

(もっと他に考えることがあるでしょうに)

(自分の体のこととか、迷惑をかけた人のこととか)

「あ……ごめんね、憂。今度から気をつけるよ。そうだよね、みんなに迷惑かけたよね」

「え?私はただ、よかったねって」


「え?……あれ?」

憂は言った。確かに言った。唯の身勝手な振るまいを咎めるようなことを。

「お姉ちゃん、どうかした?」

(何でわかったんだろ?)

(顔に出ちゃったのかな。そんなにキツい顔してたかな)

(次から気をつけないと)

憂の動揺が、手に取るようにわかる。……唯の小さな手には多すぎるほどに。

(それより、せっかくのお姉ちゃんの退院なんだし、今夜はパァッとやろうかな)

(たまにはお寿司でもとろうかな)

「あ、憂。何にも気を使わないで。自業自得なんだし」

「……え?」

「……え?」

「……お姉ちゃん、何でわかったの?」

憂の顔に、はっきりと動揺と困惑が浮かんでいた。だがその表情は、憂の内部の混乱を半分も伝えきれていなかった。

(……顔になんか書いてあるのかな)

(ちょっと鏡見てこよう)

「ま、まあいいや。ちょっとトイレ行ってくるね。晩ご飯はたまにはお寿司にしよう」


部屋に取り残された唯は、憂に負けず劣らず混乱していた。

憂は何故あんなに動揺してるんだろう。ただのありふれた会話で。

別に、おかしなことを言った覚えはない。いつも通りの言葉で、いつも通りに返したつもりなのに。

……つもり。あるいはやはり私がおかしいのかもしれない。狂気に捕らわれた人間が、自分は正気だと思いこむのと同じに。

唯は絡み合ったコンセントを一本一本ほどくように、今の会話の意味を吟味する。

……やがて、一つの突飛な、だが辻褄のあいすぎる答えが浮かび上がる。

(私……他人の心が読める!?)


急に心臓が活発になる。胸の中で白い閃光が弾け飛ぶ。……きっと今胸に手をあてたら、心臓はシャボンの泡よりもあっけなく壊れてしまうだろう。

唯は口を半開きにして、呆然とその場に突っ立っていた。体が前に傾ぐ。平均感覚すら失われてしまったらしい。

(他人の心が読める……これ、いわゆる超能力ってやつなの?)

彼女の頭は、答えを求めてあてもなくさまよう。答えなどあるはずもないのに。

……ふいに唯は笑い出した。乾いた笑い声が抑えきれない。肩が痛みという抗議の声をあげるが、気にもとめずに全身で笑い続ける。


それは、唯が初めて獲得した勝利だった。
頭の出来も体も並みで突出した才能もない、平凡な少女が手にしたあまりにも大きすぎる勝利。


翌日の朝。
いつも寝ぼすけな姉が時間通りに起きてきたのを見て、憂は目を疑った。

(お姉ちゃんが早起き……だと……!?)

(お天気が変わるんじゃないだろうか?雪でも降ってきたりして)

(……お金でも降ってこないかなあ)

「おはよー。憂」

唯は憂の“言葉”を無視してにこやかに朝の挨拶をする。

昨日のうちに、唯はこの“力”の使い方を完璧にマスターしておいた。どうやら“心の声”は、通常の言葉と違いわずかに滲んで“聞こえ”るようだ。

この区別さえつければ昨日のような失敗はしないだろう。

……昨日はずっと上の空だった。憂がせっかく頼んでくれたお寿司も、久々の自宅での入浴も、何の感動を与えてくれなかった。


実のところ、夕べは興奮のあまりほとんど寝られなかった。布団の中であっちを向いたりこっちを向いたりして夜を無駄遣いしただけだ。

(お姉ちゃん、やけにご機嫌だなぁ)

(……まあ、退院あけだしね)

「お姉ちゃん、学校が楽しみ?」

「うん、楽しみ!早くみんなに会いたいや」

早くこの“力”を有効活用したかった。これさえあれば面倒な人間関係に悩まされずにすむのだ。

……そう、私は誰よりも空気の読める人間になったんだ。

唯はこの“力”を公表するつもりはなかった。超能力なんて誰も信じないだろうし、主張したところで頭がおかしいと思われるだけだ。
だったら一人で楽しむに限る。


大急ぎで朝ご飯を詰め込み、顔を洗って家を飛び出す。

「先行くね、憂!」

「お姉ちゃん、待って!」

憂の言葉を後にして唯は晴れた空の下に飛び出す。太陽は地上にいるものを焼き焦がすことを諦め、いまは空の片隅でちんまりと縮こまっている。

どこからかキンモクセイの冷たく甘い香りが漂ってきて、唯の弾んだ心にさらに勢いをつける。

たまにいろいろな人間とすれ違う。たいていの人の“声”は日常の些末な問題について語っていた。

誰に聞かせるつもりもない声。聞く者などいないはずの声。

(給料日)

(安売り)

(メール)

(嫌な授業)


唯は他人の“声”を聞くことに、罪悪感がないわけではなかった。スケベ心でプライベートを覗き見するなどいけないに決まってる。

でも、と彼女は罪悪感を抱きしめ、頭を撫でて落ち着かせる。

望んで得た“能力”ではないのだ。それに“声”の方が勝手に私に飛び込んでくるのだ。いったいどうすればいいというのだ。

巣にトンボが引っかかった蜘蛛に何の責任があるというのだろう。夏の虫が飛び込んできた火に、どうすることができるだろう。

そんなことを考えていると、ふいに二種類の“声”が“聞こえて”きた。彼女がよく知る後輩の声。

「せんぱーい、唯先輩ー!」


ツインテールをぴょこぴょこと揺らしながら、梓が駆けてくる。もちろん“声”もばっちりと聞こえる。

(一応治ったんだ。助かったなぁ、ライブ)

(今日からみっちり練習させないと)

(……抱きつかれるのは嫌だなぁ)

唯は梓を抱きしめようとした手を引っ込める。……そっか、嫌だ嫌だって言ってたけど、本当に嫌だったんだな。もう止めないとなぁ。

少し残念だったが、仕方がない。嫌がらせは唯の好みではなかった。それより、“力”が早速役にたってくれたことに感謝しなくてはならない。

「あずにゃん、おいーす」

「おはようございます。肩はもう大丈夫なんですか?」

(ライブは出られますよね?)

「……うん、大丈夫だよ」

唯はちょっとだけ傷ついた。寄りかかっていた木がフッと消えてしまったような気分だった。

……私の体の調子よりもライブかいっ。


二人は並んで登校する。梓は唯に事故のことをああだこうだと咎めているが、彼女はほとんど上の空だった。

「……唯先輩は不注意なんですよ。だから……ちょっと、聞いてますか?」

「ちゃんと聞いてるよ」

……もちろん聞いている。ただ、聞く“声”の種類が違うだけだ。

「おーい、唯ー!」

顔を上げると、懐かしい顔が二つ。律と紬が手を振って待っていた。

「あー、りっちゃん!おいーす!」

(……チッ、今日もあいつの顔を見なきゃならないのか。気違いデコ女)


……え?

唯は今“聞いた”ことに耳を疑った……聴覚を使ったわけではないのでこの表現は誤りかもしれないが。

後輩の顔を見つめる。にこやかに笑った愛らしい顔に似合わぬ赤黒い憎悪の念が彼女から発散されていた。

(ふん、ニヤニヤと締まらない笑みを浮かべやがって)

(穀潰しの分際で先輩面しやがって)

(気色悪いレズ女といちゃいちゃしてさ)

……鏡を見たら、きっと滑稽な表情をしているに違いない。唯は顔の感覚をすっかり失ってしまった。

「唯ー、今日は早いんだなぁ」

「学校に行きたくてしょうがなかったでしょう?」

(おい唯、なんでそんな害虫と一緒に仲良く歩いてんだよ)

(あなたはこっち側の人間でしょう?)


聴覚がズルズルと蛞蝓のように唯の耳から滑り落ちてゆく。律や紬や梓が発する言葉が耳から耳へと抜けてゆく。

唯は呆然と別の“言葉”を“聞いて”いた。律と紬から汚らしい黄色の悪意が発散されている。

(このチビ、唯に惚れてんじゃねえか?ベタベタしやがって、気持ち悪い)

(キイキイとヒステリックに叫んで、ノイローゼになりそうよ)

(何で入部させたんだろ?入部させなきゃよかった)

(さっさと出て行かないかしら)


……律が梓の頭をクシャクシャと楽しげに撫でる。梓が笑顔で手を除けようとする。紬は嬉しそうににそれを見つめている。

唯だけが笑みとは無縁の、鉛の池をさまよっていた。


感覚の失われた足で、いったいどうやって学校にたどり着けたのだろう?

唯は青白い凍えに取りつかれていた。まだ9月だというのに腹の底が、頭の内側が寒くて寒くてたまらなかった。

耳を塞ぎたくてたまらない。だが耳を塞いでも無駄なのだ。唯の心は悪臭を発する、汚い色をした憎悪の念で埋め立てられそうだった。

(入部しなきゃよかった。ライブで成功させたらさっさと辞めてやろうかな)

(害虫の頭触っちまった。後で手を洗わなくちゃな。消毒もすませなきゃ。オエッ)

(新人のペーペーの癖に、威張り散らして。何様のつもりかしら)

……澪ちゃん。澪ちゃんなら、大丈夫だよね。みんなのことが大好きだよね……。

「おい、律ー!」

「おぉ、澪ーっ!」

(何だよ律。またそいつと一緒かよ。さっさと退部させろよな。部長だろ?)

唯の希望はあっさりと打ち壊された。にこやかに笑う澪の手によって、あっさりと。


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最終更新:2010年03月10日 00:56